自他区分の問題について、ちょっと間が開いてしまったが続き。
前回の記事「自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる」はこちら
ちょっと一気に進めたいのでかなり長くなるがお付き合いのほどを。
自他区分というより自他の境界感覚かも
前回の記事で図にしてみたら浮かび上がってきたのは、自閉症者では自他区分に問題があると言われるが、それは実は自他の区分というよりも自分と外界との境界の性能なのではないだろうか?ということだったが。これに外界からの刺激(情報含む)を加えて図にしてみるとこんな感じになるだろう。↓
境界が明確な場合は外界からの刺激がむやみやたらに入ってくることはない。刺激の取捨選択によって境界内部に取り込むことはあるだろうが、基本的にかなり安全が確保されやすい状態であり、内と外のj区分が明確な状態である。
対して境界が不鮮明な場合は刺激が易々と自分の内部に入り込む。境界の不鮮明度にもよるが、常時刺激が入り込む状態である。安全かどうかは情報の量や性質に依存する度合いが高くなる。
ここで言う刺激は、話が内的世界の問題であるので実際の感覚的なものではない。すなわち他者の発する情報であるから他者からの情報流入に対してのとらえ方の差として現れてくるだろう。
境界が明確でない場合、どういったことが起こりうるだろうかを考えてみた。
自他の境界と他者の言動のとらえ方
他者の居る場で何らかの意思表明をした場合、他者がいろいろそれに対しものをいうことがある、アドバイスであることもあるし、勝手な物言いや感想だったり、まあそれは様々だ。それに対するとらえ方はどうなるだろうか?まず、境界が明確である場合。
人の意見を聞きつつ、適当に取捨選択をして一部を取り込むこともあるだろう。まあ、これはごくありがちで妥当な反応だ。
では、自他の境界が不鮮明な場合はどうなるか?
どの意見を採用したらいいのか、あるいは全部破棄するのかというのは、自分の嗜好or指向性という基準が明確でないと困難だ。だが、他者の意見が内部に入り込みやすい状況ではその基準が揺れ動きやすくなるだろう。
接する他者の人数が多くなればなるほど、他者の意見も多種多様になってくるのでより選択の困難度も増すし侵襲性も増す。当然対人状況における思考の負荷や心理的負荷も高くなるだろう。
他者の意見、見解が自分の内部に容易に入り込むので、もともとの自分の考えとの混同も生じやすくなる、つまり結論が他者の意見に翻弄さらやすくなるし決定が困難にもなるだろう。
他者のアドバイス
上記はごくごく妥当な反応である。他者の意見はとりあえず参考としながら要不要を自分で判断できる体勢である。
もし境界が不明確、不鮮明だったらどうだろう?
他者の意見が自分の内部に入り込みやすいと他者の意見というだけで自分の内部への侵襲ととらえる場合も十分ありうる。この場合、他者の提案(アドバイス)に対し、提案(アドバイス)というだけで「押しつけ=侵襲」ととらえ、拒否してしまうといった過剰防衛的な対応をしがちになるだろう。これでは他者からのアドバイスを有効利用することは難しくなる(下図)
様々な場面で困難が生じてたときに人にものを聞くことを躊躇、忌避してしまいやすくもなるだろう。
真に受けやすさとの関連
世の中真に受けて良いことと悪いことがある。成長過程でそのあたりの区分がついてくればいいが、そうでないと結構問題なことも多い。他者の意見を鵜呑みにすることは往々にして結構危険だ。だが、内部と外部に明確な線引きができなければ、当然鵜呑みにしやすくなるだろう。
褒められ編
褒められて悪い気がする人は少ないだろうが、あまり自分の実態と合わない賞賛は適当にながして真に受けないのが穏当な対応である(下図)。
だが、他者の意見が容易に内部に入り込む状況では、賞賛がそのまま内部に取り込まれてしまいやすいだろう。
こういう状態では下手に褒められると実態に合わない自己像を作りやすいといったことにもなるかもしれない。
悪徳商法編
世の中には悪徳商法なんてのが存在するが、もし悪徳商人の言葉を鵜呑みにしたら…財産に危険が及ぶのは言うまでもない。
境界が明確であれば上の図のようにスルーできるものでも、境界が不明確な場合は悪徳商人の言葉が真実として内部にはいりこんでしまいやすいだろう。
だまされやすいのは正直危険でしかない。悪徳商法とまでいかなくても交渉等で自分に不利な条件を受け入れやすくなってしまうことは十分にありうる。
傷つきやすさ編
世の中いろいろな人がいる。好意的な人もいれば批判的な人もいる。他者には他者の事情も気分もある、そして気分で言動がまったく変化しない人というのは珍しい。あまりありがたくはないが年中攻撃的な人もいるにはいるし、悪意をもった人だっている。
となれば、人の意見を聞いていろいろ今後の参考にしていくにしても自分を苛まない程度に取捨選択しないことには他者の評価に翻弄されてしまう。取捨選択するには自分の内と外の境界がはっきりしていないと難しいだろう。
境界が明確な場合は他者の批判は基本自分の外にある。これなら批判をどう取り入れるかの決定は自分でできる。(下図)
だが、自他の境界が明確でない場合、他者の批判的な言動が内部に入り込みやすい。そして真実としてとらえられてしまうがために、他者の批判的な物言いに対してとても傷つきやすくなる。妥当でない批判や、気分に起因するちょっととげのある程度の言動にまでいちいち翻弄されることになるので傷つく回数も増えるだろう。
批判が選別されずに真実化してしまうと、本気で腹が立つことも、落ち込むことも多くなる。妥当でない批判に対してスルーすることも難しいくなるだろう。嫌味や皮肉でちょこっとだけ反撃なんてことも当然できようはずもない。
勝手にPTSD、勝手にウツ、そしてリセット行動
特に対人関係部分に関して、今まで述べたことをちょっと図にまとめてみると下記のようになるだろう。
他者の意思と自分の意思の区分が容易でないなら、特段批判的ともいえないような他者の言動で深く傷ついてしまったり、他者の言動に翻弄されて疲れ果ててしまったりというのがASD者にありがちなのは上記のようなメカニズムなのではないかと思う。
こういう世界観であればまた過剰な遠慮が生じて意思表示がしにくくもなるだろうし、逆に他者のテリトリーに関して無頓着な言動をしやすくもなる。
これでは記憶特性(画像記憶が再現しやすい)の問題がなくてもウツにもPTSDになりやすいだろう。
ウツやPTSDでは、深刻な原因がある場合ももちろんあるが、ことASD児者の場合なんで傷ついているのか意味不明な「勝手にPTSD」「勝手にウツ」現象といっていいようなケースも結構あるような気がする。
そしてこの際だから書いてしまうが、「発達障害者は傷つきやすいから傷つかないように周囲の人が配慮しましょう」なんてのは、絵に描いた餅だと思う。自他の境界の問題があるかぎりイタチごっこになるのは必然だ。
また自閉症者では処理のキャパシティを超えた高度の対人状況に置かれたときにリセット行動を起こすことがあるということを先日十一元三氏の講演で聴いてきたのだが、それもこういったメカニズムなのではないかと思う。
自他の境界が明確でない状態のメリット
自他の境界が明確でなために他者の言葉を鵜呑みにしやすい例を3例あげたが、鵜呑みにする(=内部に取り込む)ということはある意味真実として認識することでもある。これには実はメリットもある。
健常児の場合も、自他の区分ははじめから明確ではないという。自他の境界が不鮮明であることは、外部の情報を内部に急速に取り込めるということでもあり、成長過程での言語、生活習慣などの習得や保護者との愛着関係の成立という面において逆にメリットとなっているだろう。
また、特に芸術などの分野で、対象者あるいは対象物を容易に取り込めることは擬似的な対象との一体化といったことが容易になり、対象のリアリティを表現するのに好都合となるといったことも考えられる。
(とはいえ、これは境界の明確度をある程度自覚的にコントロールすることを習得できていないと役に立ちにくいようには思う)
自他の境界と対人認知
ここまで、自他の境界についてだけ述べてきたが、自他の境界の不明確さに加えて対人認知の問題がある場合について考えてみよう。
自他の境界が明確でない場合、様々な他者の言動がダイレクトに入ってきても、それが他者由来のものだということは認識できるだろう。真に受けるか処理できなくて拒否するかという事になるだろうというのは前述のとおり。(下図)
だが、ここで対人認知の希薄さが加わるとまた様相が変わってくる可能性がある。(下図)
他者が意思をもった個人であるという認識が希薄であればあるほど、反発が生じにくくなり、より真実性が増してくる。つまり外から入ってくる「こうしたほうがいい」という情報は義務になってしまいやすくなる。
それが高じてくれば入ってくる情報はその人の中で「天の声」化していくとは考えられないだろうか?(下図)
「自閉っ子、こういう風にできてます!
」の著者のお一人である藤家寛子さんがかつて持っていた「巨人のいる世界(今はいないらしい)」というのはこういったメカニズムで生じていたものではないかと私は推測している。
意思を持った人間が集まって社会が形成されているということが”リアルな感覚として”認識しにくければ、様々な社会的事象について「必然」あるいは「何か見えざるものの意思」という解釈をしがちになるのはある意味当然かもしれない。
上記のように自他の境界が曖昧だということは、程度の差こそあれ外部からもたらされた情報の真実性が容易に増すということにもなる。そのため、自分に対し向けられた言葉や周囲で言われていることが「正義」と認識されたり「一般的なルール」と認識されたりしやすいということでもある。
「公平にしましょう」といわれた場合「常に公平にすべき」ととらえやすかったり、その延長線上で「自分は公平に扱われるべきである」といった認識をしやすいということも生じるだろう(一見よさそうではあるが世の中公平でないものの方が多いので杓子定規に適用すると社会に受け入れられにくい怒りや不満の元になる)。
自分が言われたこと、周囲で言われていることを範囲を広げてルール化し、他者にまで適用しようとするタイプの誤学習はよく見られる。
医者や支援者がよく使う「まずは理解が必要です」とか「特性に応じた合理的配慮をしましょう」いうのも、拡大解釈や反転、ルール化の起こりやすいように思う。
もちろん必要な支援の整備は待たれるが、上記のような現象が行き過ぎればなんでもかんでも「うまくいかないのは社会の理解、配慮がないせいである」という判断をしがちにもなるだろう。こうなっては慢性的な不満、イライラの元である。
まとめ、境界の不明確さゆえに起こりやすいこと
自他の境界の不明確さゆえに起こりやすいことをリスト化してみよう。
正直、ここまでリストアップできてしまうというのは私自身少々驚いている。派生する現象も含めたらもっと多そうだ。
ASD児者の内部や周辺で起こりがちなトラブルのかなりの部分が、自他の境界の問題と結びついていそうである。
そんなわけで、今私は視線認知の問題と自他の境界の問題は自閉症の謎?を読み解くかなりのキーではないかと思いつつある。
自他の境界はかたちづくられる
内的な世界観として「自分は自分、他人は他人」ということが明確化されていないことのリスクについて書いてきた。ASD児者周辺で起こる様々なトラブルがしっくり理解できるにはどう捉えたらいいのか?を考えてきたら、かなりの現象で「自他の境界の不明確さ」に行き着いてしまったという訳である。
では、ASD者の全部がこういった自他の境界の明確度に由来する問題を持っているか?と問われればNO!である。
これを書いている私もASD者だが、どこ吹く風度に関しては定型さん顔負けのようで、心臓に毛どころか剣山が生えているとか、ワイヤーロープの神経とか友人に言われたりもする。
周りを見回しても他人の言うことをさほど気にしないタイプの当事者は結構いる。そして発語を持たない自閉症児者の場合でも他者と自分の境界を明確に捉えているとおぼしき人たちもいる。
ASD者でも「自分は自分、他人は他人」というのが世界観として定着していくことは別段ありえないことではない。境界は明確化できると私は思う。そしてやはり境界がしっかりできていた方が生きていて楽だろうとも。
こうなると自他の区分を明確化するための要件とは?という問題にぶち当たる。ここが解決すれば結構が片付く問題も大きいかもしれない。
次回はそこに話を進める予定。
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長かったですね~
すいません
ま、ボチっとお一つ