待っている命がある

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Nice!

拙稿「救急車の事故をおもしろがる朝日新聞」に対して、以下のコメントを頂いた。

人命を容易に奪える車という凶器を扱っている以上、
安全走行よりも重視される価値観など無いと思います。
言わんとする趣旨は判りますが、医者として及第点でも、
あなたの認識はドライバとしては落第点、またはそれ以下だと思います。

事故が起きた時、緊急時の救急車に奪われる命と、
乗用車に奪われる命に違いが有るんですか?
相応する理由が有れば安全運転しなくて良い感覚は、
家族を事故に巻き込まれた人間には非常に違和感を感じます。

ご指摘はいちいちもっともな内容である。当方として個人的には反論可能な筋合いのものではない。救急医療に私一人が関わっているのなら、返す言葉もございませんとしか申し上げようがないところである。しかし、ここで返す言葉が無くなっては、全国で新生児搬送に携わっている医師が多かれ少なかれ「相応する理由が有れば安全運転しなくて良い感覚」をもっているような誤解を生じかねず、それはただでさえ疲弊しつつある新生児医療に多大な迷惑を及ぼすので、泥臭く弁解をさせていただくこととする。

まず、「安全運転しなくてよい」と考えて新生児搬送に携わる医者など、いるわけがない。そんなことを考えていると他人様に思われたというだけでも、なんだかバカにされたような気がして悔しくさえある(その状況をもたらしたのが自分の浅慮と筆力の無さであることは重々承知していてもだ)。だいたい何科であれ、交通外傷がどれだけ悲惨なものか知らない医者など医者じゃない。そいつはろくに救急医療の研修を積んでないということだからだ。

そういう一般的な理由はさておいて、もっと卑近な話をしよう。我々が安全を軽視しない理由の一つには、事故があった場合、もっとも危険なのが(搬送中の赤ちゃんを別格とすれば)当の我々新生児科医であるからだという事情がある。運転士はシートベルトをかけて、エアバッグつきの運転席に座っている。搬送用保育器に向かい合うベンチに中腰で座っている我々には、エアバッグはおろかシートベルトさえない。赤ちゃんの状態に注目していると車外に目を配るすべもなく、当ると覚悟して身構えることすら不可能である。赤信号の交差点に無謀なやりかたで進入した場合、青信号側の車に側面衝突されると、我々は救急車内でもんどり打つか、あるいは救急車の側面と保育器とに挟まれることになる。今回の事故では同乗の医師も助手席に座っていたようだが、二重三重の激しい衝突の様子からして、もしも保育器の隣に座っていたら、彼は助からなかったかもしれない。

だから私はなにも今回の事故に関して、救急車の運転をしていた方に過失が無かったとは申していない。もし過失がないのなら警察の逮捕は不当逮捕ということになるし、今回の事故を警察発表だけで報道したマスコミはまた相変わらずの医療バッシングだとするべきであろう。そういう主張をする気は毛頭無い。

ただ、実は顔見知りではあることだし、寛大な処置をと願うものである、とは、申し上げさせていただきたい。

朝日新聞を攻撃したのは、彼らが淡々と事実の報道に徹せず、不真面目な、珍ニュース扱いの報道をしたからである。小賢しく嘲笑的な記事の書き方をするゆとりをかました割には、医師同乗で迎え搬送に行くという状況がどういう状況であるか、迎えに行く先にはどのような状態で患者さんが待っておられたか、さらには京都第一赤十字病院が新生児搬送車を失うということが京都の地域医療に対してどういうダメージを与えるか、そういう考察を全く欠いていたからである。

どのような患者さんが待っておられたかについて、各紙は考えただろうか。そこまで大きく紙面を割く方針の無かった他紙ならともかく、凝った見出しに手間と紙面を費やした朝日新聞なら、それに触れるスペースもあったろうに。未明に起きた事故だけど当日は夕刊が休みで締め切りは朝刊だったのだから、取材の時間だってあったろうに。ふざけるには十分だけど取材には足りない時間だったのだろうか。救急車に「つくられて」しまった負傷者の命を問題にする一方で、救急車を待っていた命には何の言及もいらないのだろうか。

ここは通りすがりさんのお言葉を借りよう。事故が起きたときに緊急時の救急車に奪われる命と、現実に救急車を待っている患者さんの命と、違いがあるのか? いや、前者が一般的にはあくまで仮定の存在、後者がすでに現実となっている存在であることを考えれば、一般論として同列に比べるのはかえって後者に対して不当である。今回は前者も危うく現実となりかけたわけで、この比較を現実に迫られるような恐ろしい事態になったわけだが。私もまた新生児搬送の当事者として回答を迫られているのだろう。私としては、搬送依頼元の産科医院で出生直後に呼吸困難を生じてNICUからの迎えを待っている赤ちゃんの命と、救急車のサイレンに気づかずぶつかってくる車の運転手さんの命と、あるいはぶつかられる救急車に不安定な姿勢で乗っている自分の命と、比較することを現実に求められるような辛い目には、あまり遭いたくないと思うわけだが。虫が良すぎる願いだろうか。この比較をどう思うかと、朝日の今回の記事に関わった人らに聞いてみたい気もするのだが、大新聞を相手に蟷螂の斧もよいところ、なのだろうね。

その現実化を防止するような運転技量の極みが、高いところにはあるんだろうと思う。緊急車両を安全に運転できるという、運転技術の極みが。実現できなかったら珍ニュース扱いで嘲弄されるというような低いところには、それは無いと思う。むろん、事故を起こしても仕方ないとは言わない。仕方ないとは言わないが、できなかったからって浅慮な新聞に嘲弄されるのは不当だと思う。それも、虫が良すぎる感覚だろうか。