自閉症児の教育実践 TEACCHをめぐって

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自閉症児の教育実践―TEACCHをめぐって
奥住 秀之 / / 大月書店
ISBN : 4272411616
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TEACCHに関する「論争」だそうだ。類書と一線を画するのは第3章「論争・TEACCH」の部分であろう。京都で個別化・構造化を実践しておられる澤先生がTEACCHについて概略を述べ、続いて東京の先生方がTEACCHに対する疑問を並べ、それに対して澤先生が回答を寄せると言う形式。

その澤先生の回答に対する東京の先生方の直接の答えはないが、しかし第4章「私たちが目ざす自閉症児教育」が実質的な回答なんだろう。その目ざすところと言うのは、自閉症児を学級集団の人間関係の中で揉んで適度に葛藤させて成長させるというもののようだが、一般にはそういうのを「無策」と言うんじゃないかとも思う。そんなんで発達が最適化されるようなら定型発達じゃないですか。

澤先生が紹介した、小便の仕方を絵カードを用いてスモールステップで提示するという指導例に対しての、東京の先生方の疑問(あるいは拒絶のメッセージ)。

 私はこの実践例を聞いたとき、「いつも失敗してしまう子どもに対して、きめ細かなステップで教えようとした結果たどり着いた指導方法だろう」とは思いつつも、何か釈然としない違和感を感じた。心の中で「この実践は、どこがとははっきり言えないが・・・・・・しかし何かが違うのでは?」としばらく考え込んでしまったのである。(中略)

 排泄は毎日のことだ。本人はもちろんだが、毎日つきあう保護者や教師にとっても、排泄の自立は大きな願いである。しかし、そうしたトイレットトレーニングでのみ、子どもは排泄を自立させてゆくのかと言えば、決してそうではない。技法的に習得してゆく以上に、他者との関係やつながりの強さが、その子どもの背中を後押ししているはずなのである。

反論ったって一事が万事的にこのレベルだ。目眩がする。まだ今の時代にこんなこと言う人らがいるのかと驚きさえ感じる。あまりに詰まらない言いがかり的な疑問を並べられて、『「疑問」に答えて」という節で澤先生が回答される第一声は以下の如く。「疑問」とくくったカギ括弧に澤先生の気持ちが表れている。

「疑問」に対する私の「疑問」は、「自閉症という障害の背景にある『認知障害』が、まったくと言って良いほど考慮されていないのではないか」ということに尽きます。

さらに一喝。

「疑問」では、「『年長のお兄さんみたいに、自分だってトイレでおしっこしてみたい』と見よう見まねでやってみる子どもの内面世界」と自閉症の子どもたちを描いていますが、これは、本当に自閉症の子どもの姿でしょうか?

ほとんどこれで経絡秘孔を突かれたも同然なのだが、突かれたほうが「あべし」とも「ひでぶ」とも言ってないところを見ると、たぶん「お前はもう死んでいる」と誰かにはっきり言ってもらわないと、自分たちが終わっているのに気づかないんだろうな。もっと論争が必要だ、だなんて朝日新聞の社説のくくりみたいな総括で本書は終わっているが、いや必要なのは諸君の勉強ですから。

本書の存在意義は、今の時代にもまだ現場ではこのレベルの「論争」が存在するのだと言うことを衆目に知らしめたことだろう。TEACCHに関して「ありがち」な論点であるには違いないから、本書が忘れ去られた頃に、また日本のどこかから同じような「論争」が持ち上がってくることが十分予想される。それにいちいち反応するのも関係者の皆さんには骨が折れるだろうし、解決済みのFAQとして本書が記憶されれば、将来ほかの人が同じ轍を踏まないためには役に立つだろうと思う。

澤先生には本当にお疲れ様でしたと申し上げたい。