このシリーズ記事では、いま週刊少年マガジンで連載中の話題のまんが、「聲の形」をとりあげ、その中で主要なテーマ、モチーフになっている「障害者に対するいじめ」という観点から考察を加えています。 聲の形 第1巻・第2巻・第3巻大今良時講談社 少年マガジンKCいよいよ第3巻の発売日が近づいてきました。第3巻の表紙のデザインもようやく公開されました。ところで、このブログで考察をしている間にもまんが本編の連載は続いてストーリーは進展しているわけですが、ちょうどいま、第27話まできたところで、ここ最近はあまりストーリーにからんでこなかった「ヒロイン・硝子が受けた小学校時代のいじめ」の話題が改めて登場してきました。それも非常に劇的な形で。私も連載を読んでいて衝撃を受けましたし、まさにいまこのシリーズ記事で考察している内容にも対応するストーリーなっていたこともあり、マガジン発行日にこの話題について連続ツイートをさせていただきました。なお、以下には第27話のネタバレを含みますので、単行本しか読んでいない方で、ネタバレを気にされる方はご注意下さい。(ちなみに第27話は、単行本でいうと第4巻の中盤くらいに相当すると思われます。)今週の聲の形、とうとうメガトン級の爆弾が炸裂。まだ単行本で追いかけてる方にはネタバレになってしまいますが、今週はどうしても書かずにはいられないので、すみません、連投します。(以下のセリフは若干簡略化のためにいじってます)<ネタバレ>今週、植野が観覧車で硝子(聴覚障害者でかつていじめを受けていた)に何を言ったかが明らかに。その内容はまさに衝撃的なものだった。「私はあんたのことが嫌い。私たちのことを理解しようとせず、空気も読まず、クラスに面倒、迷惑ばかりかけた」<ネタバレ>「だから私たちはあんたを攻撃し、悪口も言った。それは私たちからの、これ以上関わるなというメッセージだったんだ」「そしたらあんたは大人を利用してやり返した。そのせいで石田は友だちを失い、私も傷ついた」「これっておあいこだよね?」<ネタバレ>「…ごめんなたい…」謝罪する硝子に、さらに植野は「私のことを理解してないのにちゃんと謝れるわけないでしょ。別に私は謝って欲しいわけじゃない」「私は昔の私が間違ってたと今でも思ってない。そして今もあんたが嫌い。」<ネタバレ>「でも昔は昔、今は今だから、お互いキライ同士、平和にやっていきましょう」、そうまくしたてた植野に硝子がたどたどしく返したことばは、「…ち…ちがいあしゅ…わたちは…わたちが…きあいでつ…」だった。今週号で、大今先生は弱者(いじめ)問題の最もデリケートな部分に完全に踏み込んだ。それは「弱者といっても周りに迷惑をかけちゃいけないし、それが過ぎればいじめられてもしかたない」とか、「弱者は公権力を味方につけて健常者の権利を侵害してるじゃないか」とか。あるいは、「弱者って言ったって、いろいろ優遇されてむしろ強者になってるんじゃね?うちらそのあおりを受けて実際には虐げられて権利侵害されてるじゃん!?」みたいな、そういう「健常者から設定される、私的制裁もやむなしという論点」が提示されているわけだ。そういう「健常者目線」の論点が、明らかな悪役によってではなく、登場人物中もっとも美人に設定された主人公の幼なじみで、いまでも主人公に恋をして不器用ながらも健気に主人公をおいかけている、という準ヒロインの口から提示されている。つまり、この論点は、簡単に切って捨てればいいような悪役のセリフとしてではなく、それよりずっと重みをもった「準主役側からのセリフ」として提示されているわけで、これからこの論点がストーリーに重くのしかかってくることは間違いない。この植野の発言は擁護できるか?それとも単なるクズ発言なのか?これは簡単なようで、実はどちらの立場も意外に難しいことに気づく。倫理のディスカッションのネタとしても実に秀逸で、まるでサンデルの白熱教室のよう(既に2ちゃんの聲の形スレが白熱教室化してます)。ひるがえって発達「障害」についても、同じように「発達障害者は空気が読めず迷惑かける(だから社会から拒絶される)」「支援者は健常者の権利をないがしろにしてる」といった「植野的発言」はあちこちにはびこっているわけで、そういう意味でも見逃せない展開だ。そして、もう1つ見逃せないのは、最後の硝子のセリフ。「私は私が嫌いです」というのは、ここまで27話を通じて、初めて語られた硝子の「ネガティブな内面」であり、同時に物語においても決定的に重要な意味を持っている。端的にいえば、これは硝子が障害当事者として、セルフエスティームが著しく低いということを示している。だからこそ、小学生時代から、いじめられても何をしても「ごめんなさい」といって愛想笑いを繰り返してきたのだ。そして今回も「ごめんなたい」と謝罪している。外からは天使・聖人のように見える、硝子の何をされても決して怒らず謙虚な姿は、実は自己評価が著しく低い状態で社会に適応しているというだけのことだった可能性が示されている。つまり硝子にとっては今の「聖人のような振る舞い」を壊すことが実は発達課題なのだと。でも、なぜ硝子のセルフエスティームが低いのかといえば、それは「健常者目線」によるいじめを受けていたからでもあるわけで、それを乗り越えるのはなかなか難しい。そしてその「いじめ」にはかつて石田も関わっていたということが問題をさらに複雑にしている。植野が提示した「健常者目線の論理」を、石田はどう受け止め、乗り越えていくのか。そして、硝子のまとっている、セルフエスティームの低さゆえの「聖人のような振る舞い」という硬い硬い殻を、石田はどうやって壊していくのか。その二つが達成されない限り、みんなが望んでいる(?)石田と硝子のハッピーエンドなんてくるわけがない。今週の聲の形で、そのことがはっきりと提示されたんだと思う。もちろん、高校生の石田自身がセルフエスティームどん底でもあるので、自分の問題も解決しないとだけど(笑)。聲の形、ほんとに面白いまんがでずっと追いかけてきたけど、まさかここまで深いところに切り込む展開になるとはさすがに想像していなかった。これはほんとに、障害者にかかわるすべての人にとって読む意味のあるまんがになってきたと思う。ちなみに最後に雑談ですが、私は今週号を読んだ後でも、「植野×ね」みたいな感情はもたないです。というかそういう意味では感情移入というよりはメタに読んでるってところもありますが、植野というキャラは実に奥行きがあって興味深いと思っています。連続ツイートした内容は以上です。この第27話における植野の話からは、彼女にとっては小学校時代のいじめは、少なくとも部分的には正当化されていることがわかります。(部分的に、と言ったのは、彼女が同時に「お互いに必死だった」「お互いに相手を理解できなかったからああいったことが起きた」と、自分の側の責任を実はある程度認識していることが分かるせりふを口にしているからです。)この植野の「爆弾発言」を受けて、これから物語がどのように展開していくのか、ますます目が離せません。ところで、この植野の話は、硝子と植野の関係において重要というだけでなく、主人公である石田と硝子との関係においても決定的に重要な意味をもっているといえます。というのも、今回の植野の言動は、小学校時代の石田と硝子とのコミュニケーションを改めてなぞっている(この作品には、こういう対比の構図が大量に盛り込まれているのも、実に興味深いところです)からです。・石田も小学生時代に「そうやって大人を味方につけやがって」と硝子を非難した。・石田も高校生になって硝子と再会したときに「あの頃はお互いが理解できていなかった」と硝子に伝えた。・そして石田も「これからは仲良くなれるか?」と言って握手しようと手を差し出した。実はやってることは石田と植野でほとんど同じわけです。でもそこに込められたメッセージはかなり違っていて、(本編を読んでいる方はお分かりの通り)硝子の反応とその結果はまったく違うものになった。うーん、やはりこの物語は興味が尽きないですねえ。「聲の形」、ほんとに傑作だと思います。(このシリーズ記事、次回はもとの議論に戻ります。)(次回に続きます。)