発達に凹凸がある・・・得意なこと、不得意なことの差が激しい・・・というのが自閉症の特長としてよく言われます。療育に通っていた時に、ある先生が「この子たちのデコボコの発達の凸部分を凹部分に 埋めてあげるように、土地をならすように してあげたいと思っています。」・・・・・ん?じゃあ、凸の突出した「できる」部分を押さえ込んで凹のへこみ部分に埋めてあげる、っていうこと?う~ん、それって、言うのは簡単だけどパズルじゃあるまいし、こちらの思い通りに育て上げる、っていうのもその子のありのままの姿を否定してるみたいだし、何より、突出した部分をならす、っていうところが引っかかるんだけど・・・・この子たちの突出した部分は決してマイナス部分ではない。多数派より飛びぬけた感覚を認めて欲しいのだ。敏感すぎる、その突出した部分を押さえつけるということはこの子たちの存在を否定しているのと同じ気がする。私はのび太に「普通になって欲しい」とか多数派の感覚を押し付けるつもりはない。今まで、のび太に対して対処してきたことはのび太が「生きづらい」と感じる部分を「生き易く」するために、いろんなことを教えてきたつもりだ。決して、みんなと同じようになって欲しい、と思ったことは、ない。勉強に関しても、国語の読解力が全くダメなのび太だがそれを何とかしよう、と思ったことはないし、興味のある勉強に関しては自分で勝手に調べて吸収するのび太なので「勉強は先生との約束の宿題だけは嫌でもやること、 あとは好きな勉強だけ、頑張ればいい」と言っている。スポーツも少数派独特のぎこちない動きも手伝って、決して得意なほうではない。縄跳びも鉄棒も水泳も自転車に乗るのも周りの子より遅かった。でも、ムリヤリ教えたことはない。それどころか、私たちは「縄跳びも鉄棒も水泳も自転車も 大人になって出来ないからといって損をすることはない。 出来なくたって平気。 人には得手不得手があるんだし、 のび太には他に素晴らしいところがあるから そんなもの、出来なくたっていい」と、言ってきた(笑)のび太自身が「出来なくて悔しい」と人一倍練習して全て会得していったのだ。自分で「凹部分をなんとかしたい」と思えばいつでも手助けする。だけど、親の思いだけで凹部分を無理に埋めよう、とか平均的な人間にさせよう、とか、普通になって欲しい、とか、そういうのって、なんだか、違う気がする。得手不得手の差があったらダメなのか?凹凸があっていいじゃん。世の中にみんな同じ平均的な人間ばかりがいたら、その方がよっぽど、キモチワルイ。