共感と混乱と~宇治学習塾事件判決に思う

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■共感と混乱と~宇治学習塾事件判決に思うゆうすけのパパさんとすぎかばさんのコメントに触発されて、前回の記事「宇治学習塾女児殺害事件」についての自分の思いをつづってみます。宇治の事件判決の報道は、父親部の先輩(私のメンター)H.Suzukiさんの車で移動中に聞きました。NHKのラジオからは、「懲役18年の判決が出た。争点であった責任能力の有無については、責任能力があるとの判断だった」と流れました。そのラジオでは、「アスペルガー症候群」「発達障害」という語は一言もありませんでした。被害者のご遺族が「判決には納得できない。自分たちが言うことではないかもしれないが、検察には控訴していただきたい」とコメントしているのも聞きました。私は、H.Suzukiさんに、「この事件は、たぶん発達障害が関係していますね。裁判所が、発達障害があっても責任能力を認める流れは確定してきましたね」と話しました。二人で、何でこんな事件が起きてしまうんだろう?とぽつぽつ話しながら、私は「こんな不条理な形でわが子を傷つけられたとしたら、自分も、許せないという思いになると思う」と話しました。家に帰ってから見た、報道ステーションでは、「アスペルガー症候群」を前面に打ち出して、報道をしていました。被告が塾で子どもと一緒に映っているビデオ映像も流していました。その姿は、とても若く、笑顔で、楽しそうに映っていました。犯罪を犯しそうな人間には見えませんでした。テレビでの報道の仕方を見て、「これは影響が大きい」「障害名が一人歩きする」という危機感を覚えました。私が一番恐れたのは、診断名が告知されている本人への影響です。文字や言葉の影響を強く、ストレートに受け止めてしまう傾向がある彼らが、「自分のこと」を犯罪者だと言われているように受け止めないか? 「いつか自分もああいうことになってしまうのではないか」という思いにとらわれて、不安定になることを心配しました。「あなたのことが、非難されたり、責められたりしているのではないんですよ」というメッセージを伝えることが一番必要だと思いました。どう伝えるか色々と考えて、書いてみたけれど、結局記事にしたのはこの2行でした。被告人は、個人の名において、罪を犯し裁かれました。アスペルガー症候群という障害を代表して裁かれたのではないということです。カイパパ通信の普段のスタンスからは、ずいぶんと冷たく、被告のことを切って捨てたような表現だったかもしれません。私は思うのです。自分も含めて、自閉症や発達障害をもつ人の犯罪が起きると、まるで「わが子や自分たちが犯した罪」であるかのように、胸を痛め、被害者に対して申し訳なく、自責の念にとらわれ、落ち込んだ気持ちになる当事者が本当に多いと。共感する力が強く、感受性の強い方ほど、そうだと思います。でも、この思いに囚われると、活力がなくなって、ぐったりとしてしまう。共感する力は大切だけれど、下手をすると、心のバランスを損なうようなこともあるかもしれません。「共感の罠」のようなものがあると思うようになりました。「苦痛は、3分の1でいい」の記事で書いたこととも通じるのですが、「もしかしたらわが子が加害者だったかもしれない」という同一視してしまう思いや、「いつかわが子が加害者になるかもしれない」という将来の不安まで、 同時に区別せずごちゃごちゃにして考えてしまうと、「遺族が、自分たちを恨んでいる」「自分たちは世間から差別されている」「適切に支援してくれない社会は冷たい」「将来のわが子の行く末は、暗いに決まっている」 と、ネガティブな感情の渦に翻弄されてしまいかねません。(私自身、これまでも何度も体験してきたことです…)だからいったんは、「わが子が犯罪を犯したのではない」と区別をしましょう。「障害→犯罪の因果関係は不可避のものではない(裁判所だってそんなことは言っていません)。社会の中で、生きていくことはできる」という確認をしましょう。その上で、「自分たちには、未来がある。今、未来の準備をすることができる!」と気持ちを立て直しましょう。現実に起きてしまった事件の「なぜ」を問い直し、どうすれば避けられたのか対策を考えるのは、心のバランスを取り戻したその後でいい、と思うのです。私たちの心を守るために。