本質を知らない言葉にさらされて

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Nice!

北国の、のび太地方も暖かい日が続いています。春ですね。思い出します・・・。春なのにちょっぴりムカつくこと。(なんだか、長い記事になりましたので、 お暇な方だけ、どうぞ)のび太、卒園の頃。お世話になった療育。のび太はここで、本当にかけがえのない時間を過ごした。いえ、のび太が、というより、私が素晴らしい出会いを得たのかもしれない。ここに来なければ、私たち親子は精神的にだめになっていただろう。しかし、入学と同時に療育の場はなくなる。通級のシステムも整っていなかったし、民間の療育もない地方。入学した後のほうがよっぽど、心配なことがあり、フォローして欲しい、と思っていたのは、私だけではない。教育委員会と、この療育の管轄である市の福祉課とに署名を持って「入学後の療育の継続」もしくは「それに代わるフォロー体制」をお願いしたりした。しかし、行政で予算のかかることは、一般市民がちょっと声を上げたくらいではそう簡単に動かない。で、福祉課、教育委員会などに個人的に用事があって行くときは、個人的に療育の話題を出して、市職員の方を味方につけて、内部から声を上げてもらうように仕向けよう!・・・などと、浅はかながら、できる事は何でもやってみよう!と、話し合った。たまたま、福祉課に受給者証(当時は療育等、受ける際に必要だった)の手続きで行く必要があった。そこで、対応した福祉課の課長(推定50代、女性)に、とても不愉快なことを言われた。(過去記事こちら参照)そして、不愉快な思いを抱いたまま、受給者証の手続きに別の日にまた、行った時に、課長「療育療育ってみんな言うけどね、 どうしてありのままの子供を受け入れないの? 障害のある子ってそのままでいいのよ! 無理にこちら側に合わせようって、 しゃかりきになる必要なんてないと思うよ。」私「は?療育は必要ない、っていうことですか?」課長「必要ない、とは言わないけど、 障害を理解する、っていうことは、 『ありのままを受け入れる』ことじゃないのかな?」私「療育を受けさせている親が、 子供の障害を受け入れていない、っていうことですか?」課長「療育を受けさせるっていうjことは、 『普通にしたい』『今のままじゃダメだ』って 思っているからでしょ?」のび太は幼稚園で大変ながらも普通にみんなと育っていた。それは、園の担任の先生の素晴らしさだ。診断される前からのび太の弱いところをちゃんと理解してくださり、のび太に合った導き方で、かといって、差別も区別もすることなく、のび太の奇異な行動すら、お友達に「すごい!」と思わせる手腕!だから、年中でアスペと診断されてもそれまで通り、ほかの子とわけ隔てなく園生活を送っていた。しかし、診断が出たとたん、園長から「今まで本当に手がかかって大変だった。こんな子、初めてです。 加配をつけますので、同意書に署名してください」と、ぼろくそに言われた。(暴言の園長に関してはこちらの記事を見てね)そのとき、園長から、「○○でこういう子たちの療育があるのに、 そういうところにも行きもしないで・・・云々」と、親の私が障害のある子をほったらかしにしていると言わんばかりの非難めいた口調で、初めて療育というものを知った。で、行ってみたのだった。私にしてみれば、「お宅の息子は障害があるのに療育もさせないで、 幼稚園で先生を手こずらせている。」と、言われて療育に通ったようなもの。しかし、療育を管轄するところで、「療育に頼る子育てなんて、 子供のありのままを認めていないの?」と、相反することを言われてしまった。・・・・・?!?!?一体何なんだ?のび太幼稚園は市立幼稚園で、ここの管轄も市の福祉課。つまり、同じ部署から相反する言葉を浴びせられた私。世の中には確かに、いろんな意見や考えがある。「障害があってもそのままでいいんだ。」「障害があっても社会で生きていくには多数派にあわせるべきだ」極端なふたつの意見ですが、よく耳にします。でも、この極論のふたつの意見が出るのは、本当の意味で障害のある人と向き合っていない人からのような気がする。本当にこの子たちと真剣に向き合っていれば、そんなに簡単に極端な意見は言えない。それほどこの子達はデリケートで、こちら側の接し方次第でパニックにもなるし、笑顔にもなれる。決してありのままがいけない、ということじゃない。だけど、この子達が多数派の対応次第で、どれだけ生き生きと過ごせるかを知ってしまったら、極端な意見など言えるはずもないのだ。世の中には、いろんな人がいる。だから、いろんな意見もあって当然。「障害」でも「障碍」でも「障がい」でも「しょうがい」でも、好きなように書けばいいのだ。(私は変換もメンドーだし、一般に通用する「障害」で書かせてもらいます)だけど、意見を言うなら、ちゃんと向き合って本質を知って、見て、理解して、それから言って欲しい。振り回されるのは、結局、意見を言っている人ではなく、当事者なのだから。