物事って、それをどこから見るかによって視界がぜんぜん違う。
たとえば、クリスマスにいただいたポインセチア。
ぜんぜん気がつかなかったけど、
いつもこちらに向けている反対側を見たら、
葉や枝がしんなりして、枯れかけていた。
同じ方向ばかり見ていたから、
まったく気がつかなかった。
子供を見るにしても、
上から見下ろす上目遣いの子供と、
ひざを曲げて、子供とまっすぐ向き合うのとでは、
まったく違う。
見られる側の子供にとっても、印象が違ってくるはず。
・・・で、いつも思うのが、自閉症の子供を持って、
目線をどこに合わせればいいのか、ということ。
自閉症の子を持つ親の目線か、
自閉症の子供の気持ちになっての目線か、
自閉症の子と同じクラスになった子供の目線か、
自閉症の子供を担任する教師の目線か、
不思議な雰囲気を出す子供と通りすがりにかかわる他人の目線か、
そんな子供をつれて歩く親の目線か、
自分の子供と同じクラスに自閉症の子がいる親の目線か、
自閉症の子供がクラスでどう過ごしているか心配する親の目線か、
ほかの子と違う何かを自分に感じながら過ごす子供の目線か、
自分をどこにおけばいいのか、わからないままここまで来たなあ。
そのときによって、居場所を変えて気持ちを切り替えて、
あれやこれや考えすぎて、
時々、本当の自分の思いはどこにあるのか、わからなくなる。
ここにいていいのか、
ここから見るのは間違いなのか、
変な眼鏡をかけてはいないか、
視力が悪くなっていないか、
乱視になってはいないか、
フィルターがかかっていたりしないか、
そもそもちゃんと見えているのか、
考えれば考えるほどしんどい。
ほかの人の考えを聞くたびに、
何故、見る場所が違うと同じものでも
これほど姿かたちの印象が違うのかと、驚いてしまう。
あちらから見ると、私は変わり者らしい。
でも、正直、こちらから見ると、そちらの見方は歪んでいるように思えることさえある。
人それぞれの想いはあっていいけど、
相手の居場所や見方を「想像して思いやれない」のは、
やっぱり悲しい。
ここで私が悲しい、と思うことも、
視点が違えば「悲しい意味」すら分からないんだろう。
せめて、私はフットワークを軽くしていたい。
いろんな場所から物事を見ようと思う。
「あなたの目は私の目と違う。
でも、ここまで足を運んで見てくれてありがとう。」
と、思いたいし、
そう、思われるようでありたい。
(この記事は特に具体的な物事のことを書いたわけではありません。
のび太に関して取り巻く状況で、常々、思っていた雑感です。
深読み解釈、しないでくださいね。)