「こだわり」は敵か?その2

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Nice!

コメント欄に書いていましたが、
字数制限で何分割にもなってしまうので、記事も兼ねて
コメントのお返事しますね。

一つずつ考えていくと、まず、時間のある限り、
本や体験記などは私は読もうと思ってます。
読んで一ページでやめるものもあれば、
何回も同じページを読み直す本もあり、
ツヨに該当する箇所があれば参考にするし、
これは違うと思えばどんどん斜め読みします。

それでも専門家ではないので、しっかり記憶することはできません。
なぜ知識を得たいかというと、ツヨはお話をしないからです。
彼の考えていることを知りたい一心です。
私の場合はそんな感じです。
逆にある点において自分のポリシーが薄いとも言えますが。^^

次に、なんでもかんでも自閉症に結びつけるというのは
私は正直実際そうなんだろうなと思います。
たぶんツヨを見る限り
この世の中に聞こえるもの、見えるもの、感じるもの全て、
もしくはどれかが、私達が感じているものとは同じではありません。
それは断言できます。それが自閉症ですよね。
そのつらさは想像を超えているのではないでしょうか。

とても混沌とした世界に一人ぼっちで住んでいると思います。
「こだわり」は大きな混沌とした世界の海に、
本当にかろうじて浮かんでいる一枚の葉っぱのようなもの
と聞いたことがあります。
沈みそうになる中、それを必死につかもうとしているんです。
その気持ちは私達にはわかりません。
さらさんにはきっとわかりますよね?
私もわかりたいと切に願っています。
自己評価を下げる必要なんて全然ないと思います。
はたから見て、非常に分かりにくい障害であることの難しさですよね。
できないことはできない、となかなか分かってもらえない。

強いて言えば、私は支援とは関係の薄い人に対しては
「自閉症だから・・・」
という言葉はできる限り使いたくない場面があります。
はたから見てくれている健常児のお母さんや、
通りすがりの人、お店の人や、ファミレスの隣の席の人。
そういう直接の支援とは関係の薄い人たちに対して、
「この子は自閉症なので騒いじゃうんです。」
と言う必要はないのかなと思います。
そう言われたら、言われたほうはまぁ、大変ね。と言わざるを得ない、
親の責任に対しての免罪符のようなものになってしまうからです。

親側、支援者の側からみると、どうしても何とかこちら側に
こどもを近づけたい、「自閉症だから・・・」とはしたくないという
思いもあるんだと思います。
それがマイナスだと思うことがあるから・・・
本当はマイナスではないのに。
事実、親としては、もう泣き出したいくらいこだわりを恨む場面が
あるからこその必然の気持ちなんです。
愛すればこその必死の思いです。

時に恨めしいものと、助け船ならぬ助け葉っぱ。
この両者のギャップを埋めるには・・・・
知的に高ければ高いほど、必要になると思いますが、
支援者も困ったことは、困った、と伝えること、
そして解決策を一緒に考えることかなと思います。信頼関係の上で。

生意気言ってすみません。
 
                      今日も読んでいただきありがとうございます。
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