死ぬことに対するわきまえ

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Nice!

今日は定期検診のため病院デー。経過は良好。
だけど、最近の生活について「まだ1年しか経っていないのですから無理はしてはいけません」と主治医から苦言をいただいた。「また同じことが起きてはいけないので、くれぐれも休みを十分とって」と。
命を救ってくださった先生は、わたしが無理をしている様子を聞くと本当に悲しそうな顔をして心配してくださる。

やっぱり。今のわたしは「不安なことを忘れよう」としているんだな。

「元通り戻った」と自分自身を説得したくて、無理をしようとする。健康でいたい、元気でありたい、という願いは誰しもある。それはきっと、死への不安の裏返しだ。毎日「死ぬかもしれない」と思って生きるのは辛い。だから、無意識にネガティブなことからは目をそらし、自分自身は死から遠い存在なのだと思い込もうとしてしまう。

「起きたこと」をあたかも「なかったこと」のように振る舞っていれば、本当に「なかったこと」に、幻想の中では変わっていく。そしてたがが外れる。

死ぬことを恐れるあまり「健康」にとらわれ、「不健康」な自分を受け入れず、否定する。そういうことなのかもしれない。

最近読んだ『治りませんように─べてるの家のいま─』(斉藤道夫著 みすず書房)の最後に出てくる向谷地生良さんが語る「死ぬことに対するわきまえ」について、考えている。

「人が死ぬってことは、人は生きるってことだし、人を生かすことだし。その生きるための力として、はぐくみとして人は死ぬといってもいいと思います。極端なことをいえば、人は死ななければ生きていける」 ~同書P.245~「だから、弱さを絆にというときの究極のテーマは、まさにそこでつながっている。死でつながっている。そういう暗黙の了解が、みんなあるような気がしますね」 ~同書P.245~
わたしが考えたこと──
人はみないずれ死ぬんだよね。死に至る過程で、「弱い」じぶんと必ず出会う。嫌だって否定したって、弱いものは弱い。折り合いをつけ、受け容れ、愛することができるか? 嫌悪して否定したまま消えていくか? どちらか。

そして、「弱く」なるのは、死の直前だけじゃない。
生きているなかで、「弱さ」はいつもそばに──いや、じぶんの内にある。
それは、病気というかたちに限らない。苦手だとか、不器用だとか、くよくよするとか、じぶんの好きじゃないところ、嫌悪し隠そうとするところに「弱さ」はある。

目をそらし、見ないようにしてやり過ごしても、いつかそれに飲み込まれる。
ゲドの最大の敵は、じぶんの影だった。恐れて、逃げ続けるかぎり、それはゲドを追い詰め、力を奪っていった。
認め、じぶんから影を追いかけ、向き合ったとき、影を吸収し、彼は完全性をとりもどした。