ETV特集の異才発掘プロジェクト番組の感想2発目いってみる。
1発目はこちら
ASDあるある姿勢
前回ネタバレの問題があるので後半に回したが、番組冒頭部分の中学生の子の登校シーンがやはりかなり気になる。
何が気になったかというと身体である。典型的な自閉っ子あるあるの姿勢だ。
首が前傾しやすく、かかとが浮きやすい...といったもの。
もっと端的にいうなら、下の本の表紙の右のシルエットそのまんま。
正直な感想として、身体しんどくないのかなあ?疲れないかなあ?と思う。
番組に映る他の子の様子も、座っている状態で上体をキープできる程度の体力はあるようだが、上のようなあるある姿勢の子も多い、まっすぐ向くのがちょっとしんどそうだったり、そうでなければ身体が固そうな感じがする。
そして番組中で冒頭でてきた中学生の手をもむような「くしゅくしゅ」という動作(この映像は中盤)、あれはいわゆる自己刺激行動の類だろう。番組中では彼にとってだいじなもの...という扱いになっていたが、本当にそうなんだろうか?という疑問がわいてきた。
というのは、身体の一部を無意識に動かす...実は私も小学生の頃までは多少あったし、PTSDで調子が非常に悪かった数年前まではときどき出てきた現象だ。私はほぼ脳みその調子が悪いかどうか、余力の状態などのバロメーターだと思っているからだ。
話をすすめよう。
確かにユニークで才能のある子たちなのだとは思う...が、もし彼らの身体がもっとラクになったら、もっとその才能を発揮しやすいのではないだろうか?などということを考えてしまった。
イカスミパエリアの授業で冒頭の中学生のパニックシーンも出てきたが「パニックをとがめられない」というのは必要なことだろうが、「起こさない」ほうが本人にとってラクだと思うのだ。
最後の方で「障害」を否定するようなセリフがちょっとだけ出てきたが、そこを否定してしまうと身体面の改善に向かいにくいのではないか?という若干の危惧を感じた(まあ、部屋のシーンでバランスボールがチラッと映ってたし、そっち方面もやってるかもだけど)。
身体の問題や感覚の問題は、本人にとっては当たり前になってしまっているし、他者との比較もしにくいので、負荷がかかっていてもなかなか気がつきにくい。そして、支援者によっては「特性」として変わらないものとして扱う場合もあり、そうなるとなかなか改善という視点がでてこずに、「指摘したり揶揄したりしてはいけない」というだけの扱いになってしまうことも多い。
だが、身体がラクになると、心身ともに余裕ができてやれることの幅が増える人は多い。
感覚統合療法、臨床動作法、各種のボディワーク(フェルデンクライスや操体法、気功、ヨガやピラティス等々)、とれる方法は結構最近豊富になってきている。
まあ、昨今は構成論的発達科学という東大が中心となってやっている文部省肝いりのプロジェクトで感覚統合について重要視しているようだし、もしかしたら番組中で出てこなかっただけかもしれないが、冒頭の印象的なシーンといい、そういった身体方面へのアプローチもあってほしいと思わせる映像がたくさんあった。
異才発掘というプロジェクト
番組映像を見ている限り、なんとなくこの子たちを応援したくなってくる。まあ、魅力的な子どもたちが多いというのもある。600名の応募から選ばれた15人、そりゃかなりユニークな子たちだろう。
ふと、選ばれなかった子どもたちはどんな子らなのだろうと疑問がわいてきた。
応募して選ばれなかった子だけでも585人。応募にはアピールポイントがあることが求められるから、ある程度アピールできるポイントがある子たちである。もちろん実験的なプロジェクトであるから人数は限られる。それ自体どうしようもないことではあるが、どんな選考基準だっただろうというのは気になる。
そして、もう一つ、ユニークな子どもたちが異才発掘を目標に集められ、適した教育を受ける機会に恵まれたとしても、もしその子たちが何らかのきっかけで異才としてではない社会との関わり方を望むようになったとき、そういった方向転換を本人、周囲が柔軟に受け入れられるような教育であって欲しいとも思った。
「異才」という言葉もまたスティグマになってはならないと思う。
なぜ彼らは学校環境になじめなかったのか?
ROCKETのQ&Aページでは「学習の機会が奪われている」ということが選考要件であると書いてある。
ここで疑問がわいてくるのは、なにが彼らの学習機会を奪っているのか?ということだ。
まあ、学校とはかけ離れたハイレベルの勉強をしていれば、学校の授業がほとんど復習でしかないということはあり得るだろう。日本の義務教育下では飛び級などの制度もないのでつまらない時間を過ごさざるを得ない...それはそれなりにだるいかもしれない。
しかし中盤のサンショウウオ少年が学校に行けなかったのはどうやら聴覚過敏が主な理由のようだ。「多数の普通にあわせた画一的な教育」が彼の学習機会を奪っていたとはいえないだろう。
ノイズキャンセリングツールの出現をまたなくても、周囲の音響環境がもうちょっと良かったら、彼は学校に行けていたのかもしれない。
(鉄筋コンクリート造りの標準的な学校の校舎は最低の音響環境であることが多い。コンクリートの壁に塗装しただけといった硬質の壁に大量のガラス窓、そしていたみにくいようにだろう、これまた硬質の床材。教室も廊下もガンガン反響してください、定在波(詳しい話はまた別記事にするが、ある条件で発生する減衰しにくい不快音)もどうぞ発生してくださいといっているようなものである。そこに子どもたちの賑やかな声が...となるわけだ。)
ユニバーサルデザインってのが花盛りだが、学校の音響環境こそユニバーサルデザイン化したほうがいいのでは…と思う。
彼らを支えるのに足りなかったのは何だったのか?
映像を見ていると結構楽しそうだ。そこから考えるに彼らにとってこのプロジェクトは意味があるのかもしれない。だが、なぜ彼らにこのプロジェクトが必要だったのだろうか?
番組中で中邑教授が指摘している「さまざまなルールや時間制限」ももちろんあるのだろうが、どうも私にはそれだけとは思えない。
料理なんてのは家庭でできることだ。そして料理の際に感じた疑問を調べて世界を広げていく…というのも家庭でもできる。実験や工作や工芸だって昨今は材料がとても手に入りやすい(40年前に比べたらもうパラダイス!自由研究材料の調達ができるショップのまとめはこちら)。そりゃ多少の費用はかかるが、正直「ROCKET」でなくてはできないことではない気がする。家では学校ほど時間には縛られるとも思えない。
感覚対策、視点がせまくなりがちなことへのアプローチ、周囲との軋轢をうみやすい誤学習を発見・修正していくこと、そしていろいろな生活体験を積むこと…そういうことでかなりの部分をカバーできるような気がするのだ。
まあ、変人色の濃い家庭でないとクセのある子どもたちにそういったアプローチをするための知恵が蓄積されていない部分はあるだろう。
学校を補完するなにか?が必要であるとするなら、それはシステムを作るのではなく、補完をやりやすくするための知恵や情報の提供をすることなのではないだろうか?
とまあ、こんなことを考えた。
番組そのものに対する感想
ずいぶんいろんなことをてんこ盛りにしてくれたなあ...です。
おかげで感想がやたら長くなってしまったw。
by ヨメレバ
▼バランスボール、気持ちいいよね。
VAXPOT(バックスポット) バランスボール アンチバースト仕様 ポンプ付き 65cm シルバー EG-3162 VAXPOT(バックスポット) 売り上げランキング :
にほんブログ村
↑ブログランキング参加してます。↑
応援の1日1クリックを!
ま、
なにはともあれ
おひとつボチっと