障害というものをどう捉えるかってのはまあいろいろあって、身体機能で捉えるってあり方もあるし、生活機能で捉えるってあり方もある。昨今の流行はどっちかというと生活機能モデルだけど、このモデルは別に身体機能の問題の存在を無視してしまうものではなくて、まあ、どうやってQOLあげようかって話しするときに障害者の生活機能を支える外部要素も含めて幅広く障害ってものを見てみようねってもんだと思う。ただ、この生活機能モデルで障害というものを考えるとき、社会側の受容度という面だけを大きくクローズアップしてしまうと、なんでもかんでも社会に責任を持っていくといったあまり建設的ではない社会批判に陥りやすいとも思う。発達障害者では「障害のことを理解して欲しい」がややもするとふくれあがりやすい傾向がある。当事者個々人による困り感の生じるポイントが異なることもあるし、適応状態の差異が大きいこともある。さらにいえば当事者の感じている理解されない感の原因が、実は誤認知によるものだったというケースもあるため、社会に問題を持って行くべきでないことも入り込みやすい。さて、発達障害者支援法なる法律ができてからだいぶたつ。こういう法律ができるいうことは当然職業的支援者も増えてくるということだ。それはどういうことだろう?発達障害者の支援に携わる人もいろいろいる。職務を全うしようと責任感をもって努力し続ける人もいればできるだけ責任をとりたくないという人も当然いる。そして責任をとりたくない人達にとって、責任を社会に持って行くという路線は実に都合がいい。社会の責任にしてしまえば障害当事者に厳しいことを言う必要はなくなるからだ。社会の存立も視野にいれた現実的な視点から社会の責務の妥当な範囲を検討することは別にわるいことではないと思うが、社会に責任を押しつけて障害者自身が対峙し解決してくべき問題から目をそらさせるのであれば、それは障害者自身のもつ可能性というものにフタをしてしまいかねないし、下手をすると社会への恨みにも繋がりかねない。まあ、そんなわけで「寄り添う」という名目で障害者に甘いことを言うばかりの支援者ってのは私はまあ信用しないことにしている。世の中には障害者の可能性を拓く「支援」と可能性をふさぐ「支援もどき」とがある。よく見てえらんだ方がいいのは言うまでもない。