「聲の形」から考える、「いまここにある障害者いじめ」(2)

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このシリーズ記事では、いま話題のまんが「聲の形」をとりあげています。 聲の形 第1巻・第2巻・第3巻大今良時講談社 少年マガジンKC現在週刊少年マガジンに連載中のまんがで、単行本は現時点で2冊出ており、3月17日には第3巻が発売される予定になっています。(Amazonでは予約受付中になりました。)さて、前回の記事で、「いじめ」とは「公的な制裁システム」でカバーしきれない「不公平、アンフェアネス」を衡平化するための私的制裁システムだと考えられる、ということを最後に書きました。そう考えると、「障害者いじめ」とひとくちにいっても、実はその中に2つの種類があるのではないか、ということに思い当たります。まず1つめは、「よく分からないものを怖れ、忌避する」「異物を排除する」といったニュアンスの、ある意味昔からよく言われているような「単純な構造の」いじめです。まんが「聲の形」では、主人公の石田は、どっちかというとこのニュアンスで硝子をいじめていたように描写されています。彼は硝子のことを「西宮星人」と呼び、周囲となじまない「異物」として、自らのいじめを正当化します。(それが彼が(彼だけが)その後孤立し、いじめの被害者に転落していった遠因となっていると私は読みといています)。これに対して、もう1つの「障害者いじめ」の構造として、障害者が障害があるゆえに「公的に」保護され、支援されていることに対する「平衡化」の動きとしての「私的」制裁。というものがあるのではないか、というのが今回の議論の中心になります。「聲の形」では、こちらは主人公以外のクラス全員(担任教師を含む)が「空気」として行っていたいじめに相当します。つまり、・硝子のせいで授業が止まるが、そのことは「仕方のないこと」だから硝子は責められない・硝子のせいで合唱コンクールが散々な結果だったが、「仕方のないこと」だから硝子は責められない・硝子のために「みんなで手話を覚えましょう」という提案がきこえの教室の先生から提案される。それはクラス全員にとってある種の「負担」になるが、「仕方のないこと」で「正しいこと」と説明される簡単にいうと、硝子はクラスに対してある種の「負担、コスト(もっと言うならば「迷惑」)をかけている。ところがそれは、「障害ゆえに仕方のないこと」と説明され、硝子は「免罪」される。硝子が教室にいることによって生じるさまざまな「負担、コスト(、迷惑)」は、その原因である硝子ではなく、クラスメイトの側が甘んじて受けなければならない…ここに、「あいつのせいで面倒が生じているのに、大人の社会はそれを仕方のないこととしてあいつを赦し、逆にこっちがその面倒をみなきゃいけないことになってる。こんなのおかしい、あいつは分かってない、あいつはずるい、こんな状況は許しちゃいけない」という「衡平化」の価値観が生まれます。そして、その「衡平のために相手に制裁を加える」ことを「社会の公的なしくみ」に期待できないから、「私的制裁」としていじめが始まるわけです。「聲の形」をよく読むと、小学生時代の石田はいじめの首謀者ではありつつも、この「後者のいじめの構造」に対しては微妙に距離をとり、硝子に対して、この「後者の構造」に取り込まれていきつつあるぞ、という「警告」を発するような場面も見受けられます。そして、「迷惑をかける硝子がいじめによって衡平化される」という構造に、「障害者をいじめると(公的に)制裁される」というルールが(校長先生によって)追加された結果、クラスの「安定」が乱されます。そして、その新たに追加されたルールを「構造」に取り込みつつ、クラスが再度安定するために、「硝子をいじめた石田(だけ)が制裁されるべきである」ということになり、石田がいじめの対象に追加された、ということになるんだと思います。でも、石田がいじめの被害者となり、彼が硝子をいじめなくなったその後も、硝子はいじめを受け続けているんですよね。これは、石田が主導しているように「見えた」「演出された」硝子へのいじめは、本当に構造としてそうだったのか?という疑問を呼び起こさせます。硝子へのいじめの本質は、やはりクラス全体による「後者のいじめの論理」にこそあったんだ、と考えるべきでしょう。この、「後者の」障害者いじめの構造は、「障害者は支援されるべきである」という「特別なルール」があることによって、結果的に作り上げられている皮肉な側面がある、という点で独特です。ここではそれを「福祉による処遇を無効化させようとするいじめ」と名付けたいと思います。(次回に続きます。)