こちらのシリーズ記事では、後半部として、「しない」ということば(拒否の意思表示)を活用したコミュニケーションがなぜ「難しい」のかについて、さまざまな角度から考察しています。ここ何回かは、「しない」と一見よく似ている、「えらぶ」というコミュニケーションが、実際にはかなり異質のものである(「えらぶ」は比較的易しく、「しない」はそれよりもずっと難しい)という話題を書いています。さて、前回は、「えらぶ」というコミュニケーションを表す「動作」は、単に欲しいものに手を出すということと同じであり、特別な動作は必要ないのに対して、「しない」のほうは特別な動作(提示されているにもかかわらず選ばない)が必要だ、という話題に触れました。「えらぶ」という動作は、非常に習得が容易な動作です。なぜなら、「動作」としては単独の提示物を手に入れるのと同じで済む(新たな学習がいらない)うえに、その結果としては「選ぶ」という新たな学習ができてしまうからです。どういうことかというと、既に何かを提示されたらそれを手に入れる、というごく基本的な欲求表現をマスターしている子どもに対して、2つのもの(AとB)を提示したとします。そうしたら、AとBではAのほうな好きな子どもは、Aのほうに手を出してAを手に入れたとします。この時点で、「(AとBのなかから)Aを選ぶ」という動作のために必要な動作は、できていますよね。つまり、新たな学習をすることなく、「Aを選ぶ」という動作それ自体はできてしまいました。そして、提示した側は、子どもがAを取った時点で、Bを隠してしまいます。そうすると、子どもは「AとBとが提示されて、Aを手に入れた場合には、Bは手に入らない」ということを事後的に学習することになります。(ABA的にいうと、「Aを選ぶ(とBが手に入らない)」と「Bを選ぶ(とAは手に入らない)」との間で、分化強化学習が繰り返し試行ののちに成立すると考えられます。)つまり、「動作としては、既に学習済みのレパートリーのなかの動作で済む」うえに、「その結果として、新しい動作のレパートリー(「選ぶ」)が学習できてしまう」ということになるのです。知的な遅れの大きい子どもに実際に療育を行なっている方なら実感できると思いますが、これは非常に重要なポイントです。そういう「重い子」に新しい行動のレパートリーを教える場合に、もっとも近道になるのは、「学習済みの行動レパートリーに、新たな意味や効果を与えていくこと(それによって新しい行動のレパートリーとしていくこと)」です。つまり、「えらぶ」という動作は、比較的に「重い子」に対しても学習してもらいやすいのです。それに対して、「しない」は、「そのために必要な行動そのものが新しい」ために、学習の難易度は高くなります。さて、ここで考えるべきことですが、「しない」がなかなか学習させられないといった場合に、それに近い効果を(状況次第では)得ることができて、しかも学習が容易な「えらぶ」に置き換えて学習させてみたらどうか、ということです。例えば、「Aをするか、しないか」ではなく、「Aをするか、Bをするか」に置き換えるわけです。ここで、「B」はあまり重要ではないけれども、どんな状況でも「やりたい度」が大きく変わらないような何かにしておきます。そうすれば、「Aをしたくないとき」には、自然に「AよりBのほうがいい」ことになって、Bを選んでくれる(結果、「Aをしない」と類似の効果が得られる)でしょうし、AをしたければAを選ぶでしょうから、こちらも問題ありません。こういう「行動のおきかえ」も、いわゆる「重い子」に何かを教えていくときには、大切なことだと思います。(次回に続きます。)