このシリーズ記事、後半は、「しない」ということば(拒否の意思表示)を活用したコミュニケーションがなぜ「難しい」のかについて、さまざまな角度から考察しています。さて、以前から繰り返し書いているとおり、ある行為「A」を「しない」ということを教えるとき、その「A」という行為は実際にはまったく目の前に現れません。現れるのは「ことば」のうえだけです。ですから、「A」ということば(これは音声言語に限らず、お子さんの得意・不得意の形態によっては、絵カードでもいいです)を聞いて、お子さんが容易に、かつ、確実に、頭の中に「A」という行為をイメージできるよう、あらかじめトレーニングが済んでいる必要があるわけです。ここで、そもそも、この「A」ということばが(それが何であれ)、お子さんにとって学習しにくいものであることが多々あります。なぜなら、「A」は多くの場合、名詞ではなく動詞だからです。たとえば「トイレ」であっても、その意味は、名詞としての「トイレ」ではなく「トイレに行って用を足す」という意味の動詞です。「おまいり」ももちろん、「おまいりする」という動詞ですね。知的障害のある子どもにことばを教えた経験のある方は分かると思いますが、そういう子どもにことばを教える際、絵を見せればすぐに伝わる「名詞」は教えるのが比較的容易ですが、絵に描くと必ずしも正しく伝わらない動詞は、教えるのが格段に難しくなります。「動詞としてのAが学習できている」というのは、そもそもAをしない、ということを学習させるには大前提ではあるわけですが、これが意外と高いハードルになってくるわけです。たとえば先ほどの「おまいり」を教えようとしても、下手にお寺の前で「おまいり」と言う・言わせることで教えようとすると、「お寺の建物」のことを「おまいり」と学習してしまうかもしれません。その場合、例えば散歩するときに行き先を決めようとして、家を出る前に子どもに聞いた(聞き方はいろいろあると思います)とき、「おまいり」という返事が返ってきて、実際にお寺にお参りに行ったら子どもが満足した、という展開があったとしても、実は「おまいり」という「動詞」ではなく、「お寺の建物」という「名詞」で理解をまとめてしまっていたりします。この場合、「おまいり」ということばは「お寺の建物」とイコールとなり、「おまいりする」という動作ではなく、「出かけたい先としての場所」のことばとして歪んで認知されてしまいます。この「歪み」は、意外と表には現れません。特に、おまいりを「する」方については、この程度の誤解があったとしても学習としては成立するでしょう。でも逆に、お寺の前で「おまいりする?」と聞かれて、「しない!」という返事をする(そして、その場合にはおまいり「しない」)という学習は、このような誤解を残したままでは難しいでしょう。さらに、いつもと違うお寺や、見た目が全く違う神社の前で「おまいりは?」と聞かれたときには、「名詞としての理解」で、「しない」ということばを適切に発することは、ほとんど不可能だと思われます。で、だからといって、「お寺の建物」ではなく、「手を合わせて目を閉じて頭を傾けている姿」の絵カードを作って「おまいりする」と教えることが、(お寺の建物の絵カードと比べて)途方もなく難しいことは、実際に知的に重い子に絵カードを使っている方であれば実感できることと思います。でも、そっちの方向性で(そういう絵カードがいいかどうかは別にして)教えなければならないわけです。言い換えると、まだ名詞をいくつか教えるのが精一杯で、動詞に相当するようなことばの学習がほぼ皆無であるという状況では、とてもではないですが「しない」の側を学習させることは難しい、ということでもあります。そういう段階では、焦らずにまずは「する」の側からしっかり学習させていく必要があるわけですね。(次回に続きます。)