「子猫殺し」を語る――生き物の生と死を幻想から現実へ坂東 眞砂子 / 双風舎赤ちゃんの生き死ににふだん接している新生児科医として、というよりもむしろ、猫を多頭飼いしている「愛猫家」のひとりとして、関心をもってはいた。著者の、特定の猫には住みかを与え餌を与え、著者にとっては貴重なことらしい性交と出産もさせるのに、その結果生まれる子猫は即座に崖から投げ捨ててしまう、その非対称さが腑に落ちなかった。生命一般にたいして著者がとる態度が、自称しておられるほどに敬虔な態度といえるものなのか、私には疑問であった。むしろ、この非対称さ故に、私は著者が生命に対してひどく恣意的で不遜な態度をとっているように思われてならなかった。話題の子猫殺しのトピックばかりではなく、連載のエッセイ全体を通読してみたら、それで初めて分かることもあろうかと思ったので、本書を京都市図書館から借りてきた。しかし、エッセイ自体の内容は「美味しんぼ」で山岡史郎君が述べていたようなことと大差がなかった。全体に、陳腐な論考だと思った。子猫殺しを持ち出す必然性を感じさせるような斬新さは感じられなかった。あえて子猫殺しに言及したのは、子犬殺し(じつは猫だけではなかったのだ)への反響に腹が立ったから、という以上の理由がないように思われた。本書では、3人の論客との対談によって、このエッセイの新聞掲載時に受けた攻撃に対して反論している。しかしその反論も、私には、こどものけんかの水準を超えないように思われた。曰く、攻撃してくる面々も牛や豚を殺して食べてるじゃないか私が子猫を殺すのとどう違うのだと。あるいは、避妊することによって子猫の存在の可能性を絶つことも生まれてしまった子猫を殺すことも同じことだろうと。このような主張は、私には、見方によっては共通する点も無いとは言えない事項を持ち出して、部分的な類似点を無理に拡大して全部が同じ事だと言ってしまう、ひどく粗雑な議論のしかただと思えた。反論の低水準さを別にしても、反論するということ自体が戦略的な誤りだと、私は思う。あのとき著者に対して集中的になされた攻撃は、著者自身の生命すら奪えと主張するような、極端で脅迫的なものであったからこそ社会的な問題とされるべきだったのではないか。であれば、著者がなすべきは脅迫の不当性を訴えることであろう。しかし著者が本書で行ったのは、必死になって子猫殺しの正当さを主張することであった。そうすることで、脅迫を反論に格上げしてしまった。愚かなことだ。私とて著者は脅迫にさらされるべきではないと思う。それはしかし、子猫殺しが正当な事かどうかとは関係がないことだ。