以前にも記事にしたことがあるのですが、探せません(笑)えっと・・・おそらく正解も不正解もない質問ですが…発達障害のお子さんを持つ方にお聞きしたい。ここに、魅惑のクスリがあります。なんと、発達障害が完治するクスリが開発されました。さて、発達障害が完治するこのクスリを、あなたはお子さんに飲ませますか?私は正直言って「飲ませます」と言えない。だって、発達障害が完治する、ということはのび太がのび太じゃなくなるような気がするから。この問いを突き詰めて考えていくと、「発達障害の特長は、性格なのか、症状なのか」というところに辿りつく。つまり、「発達障害=脳の機能障害」なのだが、「心」の部分まで否定しているような気がするのだ。例えば、多数派の人でも歪んだ性格の人っている。「あの人、いつも相手が傷つく事を平気で言う」その人は脳の機能障害で相手を傷つける事を言うのだろうか?じゃあ、例えば発達障害の診断を受けているのび太が相手を傷つける言葉を発したとする。私だったらつい「のび太は障害があって相手の気持ちを考えるのが苦手で・・・」なんて言い訳してしまうかもしれない。この違いは、なんだろう?発達障害って、何かの言い訳にして良いのだろうか?!何でも許される印籠みたいに障害を盾にして生きていくのはいかがなものだろう?だからこそ、発達障害があっても社会生活する上でのルールやマナーや人との関わり方を学ばなければいけないと思うし親はそれを教える義務があると思うのだ。つまり、多数派の子でも少数派の子でも親は当たり前のことを教えて、伝えなければいけないことに変わりはないし、発達障害ゆえの非社会的行動や言動も根気よく伝え続ければ、理解でき、行動も改善されるのだ。もちろん、伝え方や教え方はその子にあったやり方がそれぞれある。少数派の子は一手間もふた手間もかかるけれど、こちらが親身になって伝え続ければ必ず理解できるのだ。過去記事を読んでいただければわかると思うが、のび太が、その一例だと思っていただきたい。私は、発達障害の症状と言われる部分の特長を持つのび太を愛して止まない。幼い頃は言葉のコミュニケーションも出来なかったのでそれは壮絶な子育てだった(らしい)しかし、たくさんの方々の理解と協力と愛情でコツコツ小石を積み上げるように、のび太を育ててくれた。異常とも思えた落ち着き無さ。訳のわからないパニックで何度も公共の場で泣かされたことも一度や二度では済まない。とにかく一瞬たりとも目が離せず、何が何だかわからないまま、振り回される毎日。だけど、それが、のび太だ。もし、そういういわゆるマイナスと思われる部分でものび太から消えてしまったら、それはのび太ではない気がする。だから、私は、ここに発達障害が完治するクスリがあっても飲ませる気にはなれない。本人が自分の障害を知り、「これは辛い、なんとしても治したい」と言うのであれば、止める権利は無いが。しかし、「いえ!私は絶対に飲ませます!」という気持ちもとても理解できる。そう思うのも無理がないほど幼い発達障害の子を育てるのは本当に本当に、しんどいのだから。でも、そんな時期を乗り越えてきたからこそ発達障害である部分も含めて、のび太なのだ、と思えてしまう。私は障害丸ごと、のび太を愛しているのだから。