光とともに・・・の東光君もいよいよ、中学生。 ここ二巻ぐらいで、アスペルガー症候群や高機能という表現は避けているものの、『言語と知的に遅れの無い自閉症』という表現の、子供や人たちが登場しています。 光君は知的遅れを伴ったカナータイプのお子さんではあるが、作者の戸部さんが『自閉症スペクトラム』という括りを忘れず、作品の中に書き込んでくださっていることは、とても嬉しいです。 ややもすると、アスペルガーの子供や人は、定型発達の人からも、障害という圏内の方たちや保護者の方からも、誤解を受けやすいという現実があります。 カナーのお子さんが、音に過敏で耳ふさぎをするのに比べて、私の様に、大人になるにつれ耐性が少し出来て、ふさがない人も居る訳ですが、『耳を塞ぐ』という行為に表さなければ、その辛さはなかなか理解されるものではありません。 私は5人兄弟で、ある程度の年齢になるまで、いつも家庭に赤ちゃんか小さな子がいるという環境を過ごしました。 私にとって、『小さな子の奇声』ほど、つらいものは無く、その音を打ち消す為に、大きな声で喋ったり、歌ったり、また自分も同じ様な奇声で返す事も良くありました。 母親からすると、手の掛かるカナータイプの兄の奇声と耳塞ぎ、小さな弟か妹の奇声にプラスされて、私の奇声や大声ですから、良く私は実力行使の叱りを受けました。 つまり、起きている現象としては、兄と同じ音過敏でも、『認識されるかされないか』で、この困難な現象を理解しては貰えませんでした。 そんな私が子供を二人も産んだのですから、何年か前は正直地獄でした。 KEYの睡眠障害による夜鳴きは、本当に堪えましたし、MIEの時もそうでした。 この何年かまで、それは全て自分の努力が足りないからだと、頑なに信じていましたし、母親としての資質も無い、資格も無いとも思っていました。 戸部さんがこうやって、定型発達の人も、また自閉症に関わる人も、自閉症者の保護者達も読む筈のこの著書に、こうやって『狭間の人たち』の事を書いてくれることは、少しでも理解の輪が広がっていくだろうか? 私は自分の事をカミングアウトすることで、周囲の空気は随分と変わりました。 勿論、誰にでもカミングアウトするような真似はしてはいません。 ただ、カミングアウトされた人の中には、それを口伝えで言う方もいることでしょう。 一切近づく事の無くなった人、自閉症への理解・知識があるといいながら、実は本質を解ってはもらえなかった人、何となく気を使ってくれる人・・・ 私の方も感じてしまうほどの空気が変わりました。 でも、それでも変わらない人は、ほんの少しですがいらっしゃいます。 定型発達の人の中にも、KEYと似たようなお子さんを持つお母さんの中にも、見識者の中にも・・・ほんの少しですが。 当事者が何より、安心する人間関係とは、『同じ』という事ではないでしょうか? 以前書いた、島田洋八さんの著書・・がばいばあちゃんにも同じ様な事が書かれています。 『親切は見えない様にやるものだ。相手に気付かれてしまったら、相手も気を使うし、こっちも気まずい思いをする。相手に悟られずするのが親切ってもんだ』 友達と話す様に、近所の人と世間話をするように、生活の中の他の誰かに接するのと『同じ』である事が、何よりその世界で、自分が生きていて良いのだと、『肯定』されることではないだろうかと思うのです。 こういう事は、先日書いた、『障害があります』のワッペン然りですが、当事者の気持ちがどう動いているのかという事は、なかなか分かってもらえません。 定型発達者が、障害のある人の気持ちを解るというはとても難しい事だとは、わかるし、定型発達者が障害のある人に対して、いつも心砕かなければならないとは思わないが、お互いがどんな事を思っているのかという、理解は輪はやはり広げていかなければ、双方の為にはならないだろうなと思うのは、確かです。 いよいよ、次の段階へ進んだ光とともに・・・もっとこれからもスペクトラムを巻き込んだ話に展開することを楽しみにしています。