自分の「精神的な死」を受け入れた私だが、 母親が願書を取り寄せ、 私の意思などと無関係に入学させられた短大で 私は耐えられなくなっていった。 高校生の時は、家では自分の意思を殺して生きていたものの その反動で、学校では自分の個性丸出しでいられた。 家で押し殺している本当の自分の姿を 受け入れてくれる友人がいたのだ。 しかし、私の意思の全くない興味のない短大で ここでも「精神的な死」を強いられなければならないのだ。 つまり、私はどこへ行っても「死」なのだ。 生きている意味も価値も全く感じられなくなった。私は一世一代の勇気と、万が一の時は自らの肉体の死を選ぶことを決心し、母親に短大を辞めたいこと、そして、音楽の道に進みたいことを話した。以外にも、母親は認めてくれた。それは、母親が想像できる未来だったから、のようだ。音大進学→教師、を勝手に想像したらしい。教師になるなら、いい、と。高校生の時、私は社会福祉士を夢見ていた。養護施設や福祉施設で働くこと、社会的弱者の味方になる人間になりたいと某福祉大の進学を希望していた。しかし、母親は許さなかった。何故、許さないか、と聞いた時、「社会福祉士って一体、なんなの?」「福祉では食べてはいけない」「あなたがやらなくても他の人がやればいい仕事」という言い分だった。つまり、自分には理解できない仕事だから許さない、ということだった。担任は「某福祉大に行きたいなら成績は充分だから推薦書を書く」と、言ってもらったのだが、親は許さなかったのだ。まあ、結果的に音大進学という自分としても予想外の道に進むことになったのだが、それは、一度は「精神的な死」を受容したはずの自分が「精神の再生」を呼び覚ますことになった。私は中学1年までしかピアノを習っていなかったので技術的には周りから比べればかなり劣っていたし、自信もなかったのだが、音感だけは死んでいなかった。聴音やソルフェージュ関係はほぼ100%満点だった。持って生まれた「絶対音感」が生き残っていたおかげで私は何とか音大でやってこれた。音楽とは、自己表現だ。音楽とは自己主張しなければ何も伝わらない。「精神的な死」を遂げていたはずの私の心が音楽でどんどん生き返っていくのだ。私は、まだ、死にたくない。まだまだ、自分を生きたい。学校ではクラッシック漬け、学外ではふたつのロックバンドを掛け持ちし、まさに、音楽によって生かされている生活を続けた。そして、私は、卒業時、母親の意思に反して教員試験をわざと勉強せずに不合格になり、某音楽教室の講師採用試験に重点を置いて勉強し、合格した。音楽教室講師の仕事は、やりがいがあった。大好きな音楽で生きているそして、関わる子供たちは私に素晴らしいものを与えてくれた。自分の大好きな仕事を持って自立した私はこれまでの人生で一番、自由だった。