先日、宿泊学習の時の話。「しおり」を見たら、同じ部屋に去年、散々嫌がらせを言われたKくんと同じ部屋だった。同じクラスにはなったことはないが、のび太が同じクラスの子に嫌がらせをされているのを見て、それに便乗して、嫌がらせを続けていた子だ。「・・・Kくんと同じ部屋じゃん・・・ 大丈夫?」思わず、聞いてしまった。「どうして?大丈夫だよ」「だって、去年、のび太に 嫌なこといっぱい言ってたよね、Kくん」「もうそんなことしないよ。普通だよ。」のび太は決して人の悪口を言わない。今までどれほど、いじめやら嫌がらせやらで傷ついてもその出来事については怒り心頭で話したり、その時は「絶対に許せない!」と相手について言うけれど、後から思い返してフラッシュバックを起こしてもその出来事を「嫌だ」「辛い」とは言うけれど、決して嫌がらせをされた相手を非難する言葉は言わない。クラス替えをして一番はじめに隣の席になったのがそれこそ去年、のび太をずーっといじめてきた○くんだった時も思わず、大丈夫?と聞いてしまった私だが、「大丈夫、○くんは一人のときはいじめたりしないよ。 本当はいい人なんだよ」と、言ってのけた。なぁ~んにも考えちゃいない顔して、行き当たりバッタリで生きてるかのようなのび太。しかし、のび太は親の私なんかよりも鋭い洞察力と人を見抜く力を持っていた。仲良しだと思っていたNくんにも毎日のように嫌がらせを受け、Nくんのことは仲良しだと思っていたがためにさすがにのび太も親にも言えず苦しんだ。そして、その嫌がらせもしつこくのび太を傷つけて親子共々苦しんだ。しかし、のび太はこのNくんのことも、何もなかったかのように「友人」として話をする。私には、出来ない。こだわって恨んで根に持って生きてきた私にはどう頑張っても、のび太みたいに接することは出来ない。これが「罪を憎んで人を憎まず」と言うことなのか?私は、我が息子ながら、のび太のことを実は、とても尊敬している。世の中、えらい人に限って誰かを陥れることでしか自分を正当化できない人が山ほどいる。去年の担任教師なんて自分の指導力不足を生徒の聞き分けのなさ、挙げ句の果てには親のせいにしたのだ。世の中には自分の保身のためなら嘘でも誰かのことを悪者に仕立て上げようと策略する大人は山ほどいるのだ。のび太を見ていると、何故この子が「障害者」に括られてるのかつくづく疑問に思える。人を陥れて平気でエラそうにしている人こそ人として異常を来しているんじゃなかろうか?のび太はあんなに辛い時期に喧嘩両成敗とか何とか言いくるめてイジメる側の子と一緒に罰を受けさせた去年の担任のことも決して悪く言うことはない。そういうのび太を去年の担任は今、どう思うだろう。ちなみに…私は絶対に許せないでいる。のび太みたいには、なれない私。