小中学校時代、美術関係でしか賞状をもらったことが無かった。(あ・・・あと、硬筆がうまい人でもたくさんもらったか?)小さいころから絵を描くのが大好きだった。いつもクレヨンやら色鉛筆やら絵の具やらを色とりどり揃えて、それらを駆使してゴチャゴチャ描くのが好きでいつも何かしら画材をそばに置いていた。幼稚園の時に県の絵のコンクールで賞をもらって以来、たくさん賞を頂いた。そのほとんどが、ポスターや読書感想画、「未来の○○の想像画」など・・・つまり、全て想像したものを描くものばかりだ。・・・・・写生が苦手な私。友達の顔、風景画、石膏図・・・全く描けないのである。のび太が幼稚園の頃、自分の顔を描く、と言われた時、かたくなに拒否して描かなかった。それは「自分の顔は見えないから」どうしたらいいかわからなかった、と言うことだったようだが、見ながら描いたとしても、「見た通りには絶対に描けないでしょ?」と最近、友達とお互いに見合って描く課題があったときにつぶやいたのび太。まさにそうなのだ!!!見えている通りに描く、と言うことが正直よく解らない。見えている通りに描くとなるとカメラで撮影したように描かなければいけないのか?!だけど、そんなことが出来るほどの力もないし、一体どこまで描けばいいのか、描いても描いても思い通りになっていない気がしていた。「絵の具は必ず他の色と混ぜてから塗ること」と先生は言った。しかし、せっかく美しい純粋な絵の具をわざわざ他の色と混ぜると私にとっては汚い色に見えた。白を混ぜるのは美しくなるのだがそれ以外の「赤に青を混ぜて紫」や「黄色と青で緑」は混ぜている途中からキモチワルイ気分になった。その点、想像画は自分の頭の中で考えたものだから自分で描きやすくデフォルメしてもいいし、色も好きなように塗れる。のび太の絵は、ほとんど、誰かの真似だ(と思う)幼稚園でやっと絵を描くようになった時ずっと、同じ絵を書いていた。トミカのパン屋さんの車の絵。それは私が描いた物と、すっかり同じで描く順番も私が描いたのと同じなのだ。しばらくは「絵を描く」というと、そのトミカのパン屋さんの車を描く、ということだった。のび太の当時の自由帳は数字と文字とパン屋さんの車の繰り返しだった。その後、療育でソーシャルスキルトレーニング(SST)をやり始め、私ものび太のためにオリジナルのSSTを作り始めた。SSTは簡単にわかりやすく記号化して描くため、「人」を表すときは○の顔に直線で体と手足を描く。そして、表情も直線のマユゲや口の角度を変えて簡単に表す。こんな感じに・・・SST自体はとてものび太にとって効果的な手法だった。しかし・・・のび太の絵も上記のSSTの簡素な記号化した絵のように簡素な絵になってしまった(汗)学校で図工の時間に描く絵がみんなSSTな棒人間(笑)しかし、人とは「真似して成長する生き物」だ。今は棒人間もちゃんと肉付けされているのは他のお友達の絵を真似できるようになってきたからだと思っているのだが・・・視覚優位ののび太。「見て描く」と、たくさんの情報が入りすぎてそれを絵で表現するなんていう技量と自分で受けた情報量のギャップにパニックだったに違いない。何を隠そう、私もだからだ。今は「妄想」だけで好き勝手に時々描いては自己満足しているワタシ。芸術モノは好き勝手にさせた方が絶対に楽しい!・・・と思っているのは、シロウトのたわごとでしょうかね。