正しく葬るというのがだいじなことなのだろうと思う。と、内田樹先生のお言葉を流用してみる。内田先生の原典としては明日は明日の風と共に去りぬ-2002年11月の11月29日分を念頭に置いている。ここで内田先生の御名前を出すのは、オリジナリティは私自身も主張しないかわり人まねだというご批判はスルーさせていただきますという宣言である。虎の威を借ろうとか責任を回避しようとか言う魂胆はないつもりだ。人間に限らず、ものごとにはそれなりに寿命というものがあり、いずれかの時点でこの世から去ってゆく。でも去ってゆくものも、それを見送るものも、その「死」を迎え、送り、その後の時間を過ごすための、それなりの作法あるいは条件といったものがある。死者(人間に限らずだが)の正しい葬りかたとも言えようか。去りゆくものには、去りどきだと悟っていただくこと。これまでの自分の有り様を自分自身で肯定していただくこと。去った後の、後顧の憂いというものをなくしていただくこと。書いてて、なんだかすごく不遜なことを書いてるような気がしますが。しかしこれはおそらく昔から言うところの「成仏」ということではないかと。見送る立場のものに求められるのは、何をおいても去るものへの敬意。去るもののこれまでのありようを認めること。私の理解では、昔からこれを「供養」と言うと思ってるのですが、それがないと、そもそも去るものを去らせる自分を肯定できないと思う。その自己肯定できない心は色々と苦しい状況をもたらすものだが、それを去るものがもたらす害だと考えて、昔の人は「たたり」と呼んだのではないかと思う。たたられないためには、正しく弔わなければならない。時には、送るものが、去るものに、そろそろ去り時だと悟っていただくような配慮をしなければならないことがある。引導を渡す、というのですか。例えば流行におくれた小売の形態とか、経営が破綻しかけた企業とか、時代に取り残された思想とか、天下りの受け皿にすぎなくなった各種の団体とか。人間の肉体的な寿命に類する時限装置がそなわっていないものは、往々にして去り時を悟らず、本来の役割を終えた後も居座り続けることがある。居座っててもひっそりと枯れてくれていたら迷惑もないのだろうけれど、実際にはリソースを蕩尽したり新しいものの出現や発展をじゃましたりして、益よりも害のほうが大きい存在になってくる。でも去り時を悟っていないものに、とっとと逝けと不躾に申し渡すのでは悟るものも悟れない。意固地になったかのように現世にしがみつくばかりだろう。やっぱり、送る側が、それまでの来し方(業績そのほか主体が何かで来し方の具体的内容はことなるのだろうけど)に一定の敬意を払うことがだいじなんだろうと思う。去り時とされる頃合いには、多くのものは時代に取り残され、最新の標準に照らせば誉められるところは少なくなっているものだろう。しかし、歴史のこっち側から眺めるのではなく、歴史に寄り添う形で評価すれば、今は去り時とされているものも、かつては確かに益をもたらしていたものなのだ。それを認めて正当な感謝あるいは供養をするものだと思う。そういう心で送ったほうが万事うまくいくと思う。感謝にはたいがい、あなたの役割は一部にせよ全部にせよ完結したというメッセージが暗黙のうちに含まれているものではある(露骨に含まれていたらそれはそれで嫌だけど)。今ではその役割は他が引き継いでいるということを悟っていただければ、去っても大丈夫なんだなと思っていただけるだろうし。自分が居なければならんというこだわりが外れたら、去り時を悟ること自体は意外に容易なんじゃないかと思うのですが。去った後においても思い出される時には敬意を持って想起されるという保証も、去りゆくものにとってはだいじなことだろうと思う。消え去って当然というシャボン玉みたいな扱われ方ではなくて、それなりの悼みの念をともなった思い出されかたを、誰しも期待するものではないかと思う。自分が遺していく係累(家族とか従業員とか取引先とかあるいは思想の信奉者とか)もその敬意によって守られると思えばなおのこと。しかしこの敬意は去るものの直接の係累に限らず、のこって見送るもの全般にとっても大事なことだろう。去ったものについて心の負い目なく語るには必須だからだ。それに卑近な話、いずれは自身も逝くわけだし。「かわいそう」という表現の成熟度はおくとしても、それが去るものを悼む心の表明なのなら、一概には否定できないものではないかと思う。少なくとも、一般にはそういうメンタリティを持つ人が相当数あるわけだから、そういう心情に配慮した仕事のほうが、世間にたいする説得力がおおきいのではないかと思う。とはいえ、その素朴さゆえに本人に害をなすかも知れず、素朴な人情の一部には、専門家として成熟する過程のどこかで、個人の心の表舞台からご退場願わねばならないものがあるはずだ。その点には私も異存がない。赤ちゃんが一人亡くなったとて、主治医の気持ちの整理がつくまで他の子の治療を中断できるわけもない。しかしそのような人情は、むりやり圧殺しようとしてもなかなか死なない。不必要で仕事のじゃまだからそういう感情は殺すのだと指導され本人もそうしたつもりでいても、実際にはしぶとく生き残り、時として「たたり」をなすことがある。慢性的に仕事の足をひっぱったり、ときには燃え尽き症候群みたいな急性増悪の転帰をとったり。そういう人情あるいは感情を、ある場面ではカッコにくくって「置いておく」ことを、成長の過程のどこかで学ばなければならない。あたかもそういう人情それ自身が去り時を悟って自ら去ったかのように、正しく葬らなければならない。たとえばご先祖を仏壇にまつっておくように。朝な夕なに手を合わせて思い出し、ときに心のよりどころが欲しいときに臨時に思い出したりする存在として、逆に言えばふだんは安全に忘れていられる存在として、つまりは「たたらない死者」のような存在としておくことを、学ばねば生き延びていくことは難しい。それを学ばせる教育のシステムみたいなものもあるはずなのだが。伝統的には、命綱をつけて高いところから飛び降りるような成長の儀式がそれにあたるのだろうか。効果のほどはよく分らないが。近現代にあっては専門領域にまつわる倫理学をまなぶことがそれにあたるのだろうか。とすれば結局は倫理学って物事の正しい葬り方を追求する分野なんだろうか。医療における倫理学としての生命倫理学に関する限りは、正しい葬りかた弔いかたを追求する学問だと極言してもそう間違いではないような気がするが。以下余談。私自身は阪神大震災に関するいろいろなことを正しく葬りきれていないのだろうと思う。そもそも突然の災害に遭われた方々に、去り時を悟る云々はナンセンスだ。それにトリアージはけっして正しい葬りかたではない。トリアージを求められるような窮地を脱した後は、ふだん以上のやりかたで、死者を弔わなければならない。自分の中できちんと弔い切れていないのは私の不徳の致すところである。先のエントリーに説得力が欠けていることもまた、その不徳に由来するところで、甘受せざるを得ない。ナチの話題がでていたが、ハンナ・アーレントの報告するところによればこどものおいしゃさん日記 : 彼らとてサディストではなかったのだ、彼らも(一般国民は言うに及ばず強制収容所勤務の親衛隊の面々ですら)ユダヤ人の虐殺に関して嫌悪感に悩まされていたとのこと。親衛隊の採用にあたっては、業務に関して嗜虐的な悦楽をおぼえるような変態は排除されるよう配慮されていたとのことである。彼らを「かわいそう」にはじまる感情を仕事のために圧殺していた先例とすることは可能だと思う。