ふだん愛読している「児童小銃」を経由して、ココロ社さんの「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ!というエントリーを拝読した。その奇妙な明朗さも手伝って、全体主義国家の中央党が「その他おおぜい」的な位置づけの青年党員を対象に発行する機関誌の巻頭論文にはちょうどよい内容だと思った。いらんことを考えず党の指導に従って国家建設に邁進しよう、首領様の偉大さは君の意見ごときでは微塵も揺るがないんだから(でも、もちろん、首領様を疑うなんてことはないよね)、というような。まじめな話、水伝や血液型性格診断のようなつまらないことを考えないことにするというのがどうして勇気の問題になるのか、さっぱりわからない。考え続けるほうがよほど骨折りではないだろうか。その労力を維持するのは勇気というより根気の問題だろう。そういう、考えるに値しないことをあえて考える労力を維持している理由とは、考えるに値することを考えずに済ますための自分や他者に対する言い訳なのではないか。だから、もしここで勇気を話題に持ち出す余地があるとすれば、それは、「そういう詰まらないことを考えることによって、直視するのが辛いことから逃避していないか」ということを考える勇気じゃないかと思うがどうだろうか。真の勇気とは、たとえば水伝を考えない勇気ではなく、「水伝のごとき疑似科学を持ち出さないと自分の言葉は生徒に対する十分な説得力を持ち得ていないのではないか」という恐ろしい観点から逃げずに考える勇気ではないのか。格差の問題もまた、考えても這い上がれないのならと考えず自らの境遇に甘んじるのが勇気ではなかろう。ひょっとして自分の能力やらキャリア形成の戦略やらに見直すべき点がないのかと考えるのが勇気であろう。あるいは自分はもうどうしたってこの構造から逃れようがないとしか考えられなくとも、その構造のなかでいかに生き抜くかを考えるのが勇気であろう。そういう事を私やなんかの他人が言うのはポリティカル・コレクトネスに欠ける行為であるが、そして私は個人的にはそういう個人的資質をあげつらって社会的対策をおろそかにしようとする動きには批判的であったつもりだが、しかし本人が自分をそういう目で見直すこと自体は勇気あることだと思うのだ。その勇気を他者から強制するのはやはり間違ったことだとは思うけど、もしこういう案件に「勇気」という概念が介在する余地があるとすればそういうことではないかと、私は思う。