「特別支援」についての雑感

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Nice!

本日、ふたつ目の記事・・・やる気満々?って訳じゃないけど・・・「配慮をお願いする文書」を記事にして(前々回の記事)いろいろ頭の中で考えているうちに、どうにも納得がいかない言葉に引っかかった。         「特別支援」特別支援・・・って?「特別」に「支援」してあげるよ、ってこと?以前、ある方からいただいたコメントが思い出されます。『「特別支援」なんていうものを掲げないと、この子たちの存在にすら気づいてくれない。本来、ひとりひとりの子供が、何につまづいているか、辛さや苦しみに寄り添ってくれれば、あえて、発達障害だからって目を向けなくても、誰にでも手を差し伸べ、気持ちを傾けるべきこと。そういうことが出来ない教師、というより大人がいない。だから「特別支援」なんて「上から目線」なネーミングかつシステムが教育の中に出来上がってしまったのかも。』結局、学校と言うものは、表向きは「個性を大切に」「ひとりひとりみんな違っていいんだよ」なんてうたいつつも、実のところ、個性的な子供は友達からKYなどと言われるし、授業でも画一的な発言をしないと先生は困るんだろうし、みんなと同じようにできないことは許されないことだし、辛さや苦しさの表現方法すら、画一的でないと許されないのだ。辛いことを泣くことでしか表現できない子も、気持ちも体も硬直してしまって動けない子も、体調を崩すことでしか表現できない子がいることも、理解できやしないのだ。だから、「特別支援」という「枠」を作って、手のかかる子をその枠に入れちゃって。でも、だからと言って、この枠の中の子の気持ちとかは、棚上げ状態なのだ。「枠」を作っただけだから。「配慮して欲しい子はこの『枠』に入って! 入らないと『支援』しないよ!」・・・ってことか?!今まで、のび太はとても順調に成長できている方だと思う。それは「特別支援」があったからではない。正確に言えばのび太は「特別支援」の「枠」には入れなかったのだ。普通クラスで先生に迷惑かけずに何とかやっていけていれば、「枠」に入れないのだ。たとえ心の中は荒れ放題だとしても。だけど、先生方には配慮していただいたし、とても恵まれた幼稚園、学校生活を送っていた。「特別支援」という、その枠組みの不自然さが納得いかないなぁ〜個人的な雑感でした。