信頼?コメントのつづき (; ̄ー ̄A ・・・

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Nice!

下の記事“信頼?”に下のようなコメントをいただいて色々考えていた・・・話がかなり飛躍しているかもしれないけれど・・いただいたコメントの趣旨から ずれてしまっているかもしれないけれど・・・頭の整理のため・・・許可を得てこちらへUP・・・そこから考えたことを追記に・・・((φ(..。)カキカキ ******************************************************************* 『仲間』って認識だけで、例え相手の個々の感情や性質まで深く理解している訳では無くても、『関係』っていうのが成立してるように思われる。 だからこそ、余計に公私を混同させるのには危険性を伴うというもの。 でもさ、きっと誰だって、「そのままでいい」って言われたいんだよな。 カンペキでは無いからこそ、補い合える。 それと同じように、違いがあるからこそ、その能力に応じて、違った役割を担っていけるというもの。 人の心は十人十色だって言うけど、実際は『十人百色』。 その日の気分や、相手に対しての個人的な感情によっても、コロコロと形を変えてしまうもんだ。 活動なんかの場で、大勢の人間に向けて、自分の想いを口にするという事は。 相手が抱く思考の数の分だけ、違う捉えられ方をするというもの。 そこに公私を混同させた私情を発生させれば、『そのまま』の想いとして届く可能性は、どーんと下がるだろうね・・。 『如何に、その人にとって解り易い言葉を用い、届けようとするか』 結局はそこに重点を置かなければならなくなるんだと思う。 本当に心の深くから、理解を求めようと思うなら、そうしてその人に浸透し易いように言葉を届ける必要性というものが生じる。 信頼というものを伴う関係にするには、多数の人間が集う場で公言する『意見』では、それに相乗したり、反応する感情や意見によって、外部から形を崩されてしまう場合もあるのだという事。 問題発起だったり、意見交換が目的の場であるなら、それでいいんだと思う。 でも、そこに個人的な私情が作用するんだとしたら、 ねえ・・人間だものさ、向けられる人間は、客観的な気持ちで聞いてる事なんて無理じゃない。 私情の無い問題発起、意見交換なら、違った意見が活かされる。 違う視点として取り入れて、それこそ活動仲間として活かし合って行く事が出来るとも思うけど。 人間的な『違い』ってのは、隔たりや距離に、容易に結び付いてしまうもの。 相手の長所に着目して、 それを素直に評価するって事が出来たらいいんだけど、それは思うより簡単な事では無いんだろうと思う。 否定や批判をされた時、そうされた哀しみや憤りを感じるのと同時に。 何より・・自分が、自分自身でそれを認めるという事に、物凄く勇気が必要だったりするものだから。 自分が信じてきたものを、『違う』と言われる衝撃。 自分は、何処までもいつまでも、付き合っていかなければならないもの。 だからこそ、自分に対する変化というものを、人は何より恐れるのかも知れないと思うんだ。by 非公開コメントさま*******************************************************************