感情を表現するためには、自分の感情を掴まえなければならない。
しかし感情を掴まえることは、アスペルガー症候群者にとって非常に難しいことだと思う。
そもそも「快」「不快」「満足」「不満足」、このような単純な感情であってさえ、自分の感情に気付くのが10年後、20年後ということがあるのだ。
大人になってから、子供の時のある出来事について親に文句を言ったことがあった。
訴えた内容は、幼稚園の時にピアノを習わせてくれなかったことに対して、ずっと不満を持っていたということだった。
親は驚いた。
「不満があったなら、その時に言えば良かったのに」
母の主張はもっともである。
私の訴えは、ひどく唐突に思えたことだろう。
何を今さらと思えたかもしれない。
ピアノの代わりに、母は私にエレクトーンを習わせてくれた。
今思えば、家にピアノを置くスペースがなかったこと、母がピアノよりエレクトーンの方が好きだったということがその理由だろう。
私は母の言うことに従順に従いエレクトーンを習ったが、釈然としない気持ちがずっとあったように思う。
しかしもやもやした気持ちを表現することは、大人になるまで出来なかった。
私にとって、大人になってから「不満」という感情に気付いたことは、大きな発見であった。
子供の頃の不満を今さら言ってどうこうしようという意図はなく、ただ思ったことを言いたかった。
多分それだけのことだと思う。
他の方の記事を読んで以上のようなことを思い出し、また他の方の記事を読み返しさらに考えた。
感情をつかまえること、言語化すること-アスペルガー社会人のBlog
定型の友人と美術展に行った。
定型の友人は絵を鑑賞しながら、
「この絵綺麗だね。」「この青の色素晴らしい」などとしきりに話しかけてきた。
一方自分はというと、絵をみても何も感じなかった。
いや、何も感じなかったのではない。
何かを感じてはいたのだが、言語化出来なかった。
私も同じようなシチュエーションに置かれたことがある。
記憶は定かでないが、私は絵を描いた人に対して「綺麗ですね」「凄いですね」などと言ったと思う。
私がどうしてそのような言葉を言ったかというと、多くの人が絵を前にして同様のことを言っていたから真似したのである。
絵を前にして、私は自分の言葉で何も表現することができなかった。
複雑な感情を、その場ですぐ言えと言われて、そこでフリーズしてしまう、という経験があった。
そのまま考え続け、その日はほとんど眠れず、考えて考えて3日後ぐらいに人に通じるぐらいの言語化ができた。疲れた。
私はそもそも自分が複雑な感情を持っているのかということから疑問に思う。
持っていない感情は掴みようがないし、まして表現することはできない。
複雑な感情の表現を求められたとき、私が今までやってきた方法は、沈黙して逃げるということである。
あるいは、自分がある感情であると仮定して、その感情を表現することである。
表現するうちに、自分がその感情を持っているのだという結論に至ることがある。
後から考えて、やっぱり違う感情だったという結論に至ることもある。
判断は簡単に揺らぐ。
私は気持ちを述べるのが怖い。
ある対象について自分が本当にその気持ちであるのか掴めないままに、述べた気持ちが一人歩きすることがあるからだ。
私がある気持ちを表現したとしても、定型発達者が思うほど確たる気持ちではないことがある。
周りに要求されていると私が判断した気持ちを表現して、後で酷く後悔してしまうことがある。
アスペルガー症候群者にとって、自分の気持ちを掴むのはとても難しいのだ。