アスペルガー症候群は事実のみ述べる

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Nice!

アスペルガー症候群者は、言葉の持つコミュニケーション手段としての側面について無頓着な傾向がある。
それが、先の「間接的な非難は定型発達者を傷つける」の根本的な問題点だと思う。

鍋の具をよそってくれた相手に対して「しいたけがない」と言うことの意味を、アスペルガー症候群者(及び自閉圏者)、定型発達者(又は非自閉圏者)の立場から考えてみる。

「しいたけがない」は単なる事実である

「しいたけがない」は、アスペルガー症候群者にとって、しいたけがないことが不満足だという事実を述べているに過ぎない。
ここで重要なのは、不満に社会的意味は一切含ませていないことだ。

つまり、しいたけがない現状に不満はあるが、しいたけをよそわなかった者に対する非難の意味はない。
また、しいたけをよそわなかった者に対する「しいたけをよそって」という要求の意味もない。

不満を解消するには、自分でしいたけを取るか、他者にしいたけをよそってもらうかしなければならない。
ところが、「しいたけがない」を発した時点では、対策について一切考えが及んでいない。

アスペルガー症候群者からすれば、「しいたけがない」不満が解消される手段が提示されれば満足するはずであり、不満の解消手段は何であってもよいのである。
返ってくる反応が、

「自分でよそえば」
「よそってあげるよ」

どちらでもよい。

もちろん他者にしいたけをよそってもらえたら嬉しいだろう。
しかし、「しいたけがない」と発した時点では、自らの期待に気付いていない。
「よそってもらえたらいいな」は、あくまでも心の片隅にある期待であって、要求ではない。

次に、「しいたけがない」に対する定型発達者の反応を考えてみよう。

「自分でよそえば」と言う

定型発達者がこのような反応を返す場合、「私はあなたの無神経な言葉に対して怒っている」「だから私はあなたを冷たく突き放している」という意味を込めて言うようだ。
だから心優しい定型発達者は、「自分でよそえば」とはなかなか言えないらしい。

もしアスペルガー症候群者がこのような反応に出会ったら、その言葉の裏に隠された怒りの意味に気付かないまま、自分でよそって満足するだろう。

もちろんアスペルガー症候群者に慣れた人であれば、本当に言葉通りの意味で「自分でよそえば」と言ってくれると思うが、それは家族など限定された相手のみに通用すると考えた方がよいように思う。

「しいたけをよそって」という要求の意味を汲み取る

アスペルガー症候群者(自閉圏者)に慣れた他者(家族)は、「しいたけがない」を「しいたけが欲しい。取って」という要求と取る場合があるようだ。
場合によっては、無言でしいたけをよそってしまうかもしれない。
家庭内のことであれば、気を回した家族が無言でしいたけをよそう方が、面倒がないように思えることだろう。

しかし、家庭内で無言でしいたけをよそう行為が繰り返されれば、「しいたけがない」=「しいたけが欲しい。取って」だとアスペルガー症候群者(特に子供の場合)が誤解して学習しまう可能性があるので、教育上望ましくないように思える。
アスペルガー症候群者が社会に出たときに、「しいたけがない」と言ったところで、無言でしいたけをよそう同僚や上司は、まずいない。

もしアスペルガー症候群者を支援したいと思うなら、出来ることは以下の二つだと考える。

・不満の解消手段を教える
 自分で取るか、他者に取ってもらうか考えさせる

・他者に要求を出す方法を教える
 「しいたけが欲しい。取って」と言う言い回しを教える
 どうしてそういう言い回しをしなければならないかを教える
 
私自身は、アスペルガー症候群者が出来ないことに対して、出来る他者が何でも先読みしてやってしまうことは、アスペルガー症候群者の学習の機会を奪う行為だと考えている。
アスペルガー症候群者は、社会的に望ましい要求表現パターンを学習することができるし、論理的に説明されれば、その理由を理解できる。
論理的な説明とは、「しいたけがない」を言われた側がどのように受け取るかを、言葉で説明するということである。
学習するのには苦労するだろうが、学習してしまえば社会的に不利な状態に追い込まれることをある程度避けられるだろう。

なので、支援する立場の方には、以上の対応をしていただけるとありがたい。

しいたけをよそわなかったことに対する非難と受け取る

アスペルガー症候群をよく知らない他者(場合によっては家族も含む)は、「しいたけがない」を、しいたけをよそわなかった者への非難と受け取るようだ。
これが多くの定型発達者の反応だろうと思うが、アスペルガー症候群者からすれば最も理解できない反応でもある。

「しいたけがない」と言われた側の気持ちを、bimbomさんが分かりやすく説明して下さっているので、引用させていただく。

しいたけがない-bimbomの日記(コメント欄より)

受け取り方は人それぞれだと思うのですが、私の感じ方を詳しく書くと、「ない」と言えば自動的に動くロボットか何かのように思われているような気がしていました。お店でしいたけを注文したのに出てこなかったら「しいたけがないです」と言いますよね。自分がそういう表現をするのは、そういう相手がしいたけを運んできて当然だという場合だけなので、「しいたけない」と言われると、私は店員さんとかお手伝いさんみたいに思われているのかと思っていたわけです。自分のことは自分でする。というのが基本にあるから、人を動かすときにはありがとうだの、悪いね、だの言葉を添えるわけで、それがないということは、人にやってもらって当たり前なのか?と思っていました。

アスペルガー症候群者が「しいたけがない」と言うとき、他者を動かそうという意図はない。
「しいたけがない」が他者に与える感情的影響について考えが及ばない。

しかし受け取る相手は、言葉にコミュニケーションとしての役割を必ず見出す。
単なる不満の表明、事実の描写とは受け取らないのである。

最後に、「しいたけがない」が無神経に使われる例を考えてみよう。

定型発達者でも、「しいたけがない」を言う場合はある

仕事に疲れた定型夫が帰ってきて、定型妻に向かって「風呂は」「めしは」と言う場合が、「しいたけがない」と同様の例として考えられる。
定型妻は「少しは家事を手伝ってくれてもいいじゃないの」と切れる。

「風呂は」「めしは」という表現が、定型妻を家事ロボット扱いしているように聞こえるのであろう。
「しいたけがない」に対する私の夫の嘆きは、家事ロボット扱いされた定型妻の嘆きに等しいとのことだ。

しかしアスペルガー症候群の私からすれば、定型妻が感情的なようにしか思えないので、言葉の意味について根本的な感覚のずれがあるのは否めない。

「風呂は」
「入れれば」

「めしは」
「食べれば」

と答えたところで、冷たいとは思わないし、それが自然な表現であるように思えてしまう。

アスペルガー症候群者は、「しいたけがない」を発した時点で、言葉が単なる事実以上の意味を持ってしまうことに留意しなければならない。

「しいたけがない」

よそってくれた鍋の具に対して、まず思い浮かんだ言葉がこれだとしても、言葉にするときには頭の中で社会的に適切だと思われる表現に翻訳する作業が必要だと思われる。