「充電」ではなかった

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Nice!

■「充電」ではなかった

あと2か月で、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルは、5年目に入ります。
でも、なんだか、もっと長く、10年くらい続いているような気分がします。

それだけ、色々と、「普通じゃない」体験をしてきました。
本当に、「スペクタクル」でした(言霊ってホントにあるんだね!)。

去年の4月の『ぼくらの発達障害者支援法』出版記念会のときに、みなさんの前で「これからは充電をします!」と宣言をしました。

この時は、「充電」というコトで、OKだと思っていたんですねぇ……

みなさんは、「充電」という言葉から、どんなイメージを持つ?
エネルギーを放出した後、エネルギーを充電して、満タンになったら、再び活動を始める──そういう感じですよね。

私も、そう思っていました。

でも、その「充電」は、どうやってするのでしょう?
「充電期間」とかって、普通の会話で使うけど、
ニンゲンの充電ってどうやってやるの?

休みさえすれば、自然と「充電」されるもの?
「充電」するための「充電器」はどんなもので、どこにあるの?
必要なエネルギーはどこから取るの?

そもそも、カイパパは、どんな状態だったのか?

私自身、「自分の状態」について、とても楽観的だったんだと思います。
活動を休止して、時が経てば、大丈夫だろう──そう思っていました。

でも、

「充電」なんて、カンタンなひとことで、片付けられるようなものではなかったんですね。
ヒトの場合。

長い間、まるで、ラリーのレースを走ってきたようで。
激しいレースを戦っている最中は、とにかく走り続けるしかない。
壊れた部分があれば、大急ぎで直して、とにかく走れるようにして、
レースに戻る。

小休止はあっても、
夜が明ければ再びレース再開──
そのくりかえし。

いつの時か、

レースが終わった(続けられなくなった)。
非日常の祝祭は終わった。

それでも、身体は、興奮を覚えていて、あのときと同じように走れる自分をイメージしてしまう。

だけど、あんなに速くは、もう走れない。
「イケてた自分の残像」に、追いつくことができなくて、がっかりしたり、幻滅したり。

さらに、レースの最中には気がつかなかった(見ないふりをしてきた)故障、ケガ、不具合が、噴き出してくる。

オーバーホールが必要なことに、やっと気がつく。(こわれてるよ)
もしかすると、修理しようがない。(オレ、だめじゃん!)
もう、新しくイチから作り直さないといけないのかも?(どうやって??)

すごいなと思うのは、
勢いがついていると、既にエネルギーが切れていても、故障していても、
慣性の法則で、ある程度まで走れてしまうこと。
それが、去年1年間だったのかも。
こんなことを書いている
今にして思えば、今年は、2005年につきすぎた勢いを、じょじょにクールダウンしていくために必要な期間だったように思います。

うすうすわかっていたのかも。
「充電」なんかじゃない、ということ。
自分が、今、時間をかけていることは、コツコツとしたオーバーホール。
痛いところや、情けない所に、目をそらさず手を入れていかなきゃならない。
時間がかかって当然。

それに、

「以前と同じようにするため」に、やっているんじゃない。
新しくイチから走りだせるよう、
キライになってしまった「自分」との和解、
今できること、力量、リソーセスの見極め、
色々とある。

だから、
「充電」なんて、イージーなことばでごまかさずに、
意識して、現状を受け入れて、生まれ変わろうと思うんだ。

──今回の記事ではこれくらいで。

(何かが「終わった」こと、何かの「限界」について書いていくことは、さみしいものですね。
けれども、今は、いやな気分ではないのです。
だから、ブログを再開できたのだろうと思います。)