950ドルのチェックを書いて受付に渡すと、後ろの方から出て来た先生が安心したように、笑みを浮かべている。歯医者での治療は踏み倒される事も多いので先払いをすると心無しか和やかな雰囲気に包まれるような気がする。
10年来の差し歯が欠けてしまったのが1月以上前。前歯のために無惨にも歯抜けの顔となり、慌てて保険の利く近所の歯医者に駆け込んだ。ひびの入ったもう一本の前歯とまとめてトータルの請求が3000ドルを超えていたのが、妻の組合保険のお陰で自己負担が1000ドル程度で済んだのは本当にありがたい。
信じられないことに、アメリカでの医療は保険会社の承認が下りるまでの待ち期間というのがある。保険のプランなどによっても異なるが、長い時では1ヶ月を超え、挙げ句の果てには保険金が支払われないケースも多い。
だから医者の方も、保険会社からの支払いが確実となるまで応急処置をするだけで、本格的な治療は保険金の支払いが確実となってからという事になる。つい先日も、自転車事故で鎖骨を折った友人が、接骨手術の承認が下りるまでの1週間、痛みと格闘したという悲劇の話を聞いたばかりだ。
僕の場合はその間、義歯を入れてもらえていたので、さしたる問題では無かったが、痛みを伴うようね怪我の場合には堪え難いものがあるだろう。
医者の方もカバーの良い保険を持つ患者には、お客様としての丁重な接し方をし、保険の定かではない患者には、露骨に支払い能力の怪しい人物として扱われるのがわかる。
ベンが7歳位だったころ、定期検診をしてもらっていた歯医者さんにいくつかの虫歯を指摘され、全身麻酔での歯科治療を勧められた。当時は割とカバーの良い保険だったのだが、それでも麻酔の代金は保険が利かず、3000ドル近く払った記憶がある。
今思えば、麻酔をかけてまでも治す必要があったかどうかは疑問なのだが、カバーの良い保険を持っている患者には、必要以上の治療を売り込まれるケースも多い。
その後、ベンには市に申請していた障害者保険的が適応され、基本的には医療は無料となるのだが、行ける病院に制約があり、行った先では自分も含めた大勢の移民の方たちが列をなし、予約時間から診察に漕ぎ着けるまでに3時間待ちは当たり前といった状況。
無償の保険は基本的に貧困者のためのものでもあり、それを受け付けてもらえる病院ではあからさまな状況を目の当たりにする。良い病院に行く為には良い保険が必要なのだ。
だからアメリカという国において、保険の違いは本当に大きく、もちろん保険の無い人もたくさんいる。貧困でもなく、中流でもない中途半端な部分にあたる人々は保険料を払うことも難しく、かといって無償保険が適応されるわけでも無いので一番苦しいところなのだ。どちらにしても、信じられない医療費の高さにも問題があるように思える。
診察室に入って、丁寧に噛み合わせを見てくださる歯科の先生は、職人のような雰囲気を持ち、初めて診察して頂いた時から信頼感があった。
ロシアからの移民である先生は、17年ほど前に家族で移民して来たそうだ。体制崩壊後で合法的ではあったのだが、ロシアでの財産は取り上げられ、アメリカに着いたときには300ドルしかなかったそう。
もう一度アメリカの歯科医師免許を取り直すために大学に通い、アメリカで開業した。ロシアでは国営の歯科医師だったために十分な報酬が得られなかったという事で、たくさんの医師や学者が同時期にロシアを出たそうだ。
それぞれの国で抱える医療の問題を考えさせられる話だったのだが、そんな先生は「アメリカでの歯医者はもうそんなに良い仕事ではなくなってしまった。医者が多すぎる上に診療所の賃貸料は高騰し、採算が合わない」とおっしゃる。
確かに保険会社からの支払い承認は、治療を先延ばしにしても確認しねければならない死活問題でもあったのだ。