秋になったと書いたとたんに、また夏のような日が続いている。ニュースでは今まで聞いたことの無い「オータム・ヒートウェーブ」という表現を使っていたが、確かに一日か二日で終わるインディアン・サマーとは違い、1週間続けての夏気温というのを表現するのには、これがぴったりのように思える。
そんな狂った気候の中、NYでは花模様を描かれたタクシーが走っていて楽しい。市のアートプロジェクトというのはニュースで知っていて、ほんの数十台かと思いきや、その数は五台に一台くらいの割合。どうやらかなり気合いの入ったプロジェクトだったようだ。
ボンネットとトランク部分に描かれたパッチワーク調の花、黄色いタクシーがさらに華やかになるのだが、このタクシー、日本とはかなり事情が違う。
会社組織で運営されている日本のタクシーは、礼儀正しくこちらが恐縮してしまうほどの乗り心地だ。NYのタクシーは稀にある個人タクシーを除いては、皆タクシーをレンタルして稼いでいる一匹狼達で、運賃とチップから1日のレンタル料とガソリン代を差し引いた額を自分の儲けとする。だから客を取るのにも必死だし、ぶっ飛ばして売り上げを伸ばそうとするというのが、悪名高いNYキャブの運転へつながっている。
当然、タクシー・ドライバーの仕事は危険で、リスクの割に儲けの少ない過酷な仕事ということになり、ほとんどが移民、さらに英語の不得意な人の仕事になってしまう。アメリカという国は元来移民で成り立っている為に、この英語の喋れない人を底辺として始まる仕事の質がはっきりとグラデーションで見てとれるのだ。
例えばレストランでも、全く喋れない人は洗い場のみ、ちょっと喋れる人は料理の下作り、結構喋れる人はウエイターのヘルプと段々に対応が良くなってゆく。
もちろん、多数は一定の人種に限られてはくるが、ヨーロッパや中近東など、世界地図さながらの移民事情はそれぞれのコミュニティーで働くことが出来た場合を除いて、最終的に英語力という関門を通ってふるいにかけられてしまう。
位の低い職業として見下す客たちとタクシー・ドライバーのやり取りには、まるで召使いと雇用主の関係のようで、英語が喋れることがそんなに偉いのかと思ってしまう程なのだ。
そういった環境に育たなかった僕には、誰もがそれぞれの仕事を一生懸命に全うし、それぞれが大切な仕事の担い手であるという当然の感覚がある。そこには人種による仕事の質の差もなく、言葉の壁も無かった。
どんな状況においても存在するこうしたリアルな現場を目の当たりにして育つニューヨークの子供達はどうだろう?言葉が不自由だからとか、人種によって分かれた職業に就く人たちを見て、どんな考えになってしまうのだろうか?
もちろん誰もが皆、蔑むような態度を取る訳ではないし、逆に悪く見られても仕方の無い行動を取るドライバー達も多い。
ただひとつ押さえておきたいのは、何故彼らがここで仕事をしているかで、それには豊かな国に住んでいる己を奢らない、つつましい考え方が大切だ。だから決して「勉強しないと、タクシードライバーにしかなれないぞ」というような言い方はしたくないのだ。
僕が幼稚園の時に、隣の席の女の子が急に教室に入って来た用務員さんを見て、「なんで、そんな汚い格好をしてるの?」と言った時だ。厳しく怖かった先生は、「何を言っているの!一生懸命お仕事をしてくださっているのに、見かけや身なりの事をそんな風に言うんじゃありません」とたしなめる。
なぜだか覚えている1コマなのだが、そんな光景を思い出した。