夏休みの始まりは、いつものようにサマーキェンプへ行く事なのだが、今年は兄弟揃って同じキャンプに行く事が出来なくなってしまった。
ベンのお世話になっている障害者支援団体は、健常児のキャンプに間借りする形でキャンプを行うのだが、今年はその場所を変えてしまったのだ。弟の方は以前から参加していたキャンプになじみがあり、そちらの方に続けて行きたいということになり、ついに兄弟離ればなれのキャンプになった。
弟の方はともかく、ベンはキャンプでの弟の存在をどう思っていたかはわからないのだが、弟が参加する以前は自分一人で行っていたのだから、大丈夫だろうということになったのだった。
それぞれのキャンプは別の場所で同じ日にスタートするので、いつものように2人揃って車で連れて行く事も出来ず、マンハッタンからバスのサービスのあるベンにはバスで行ってもらうことにした。
数日前から興奮気味の2人は出発の朝を迎えてピークに達し、親としては早くどこにでも行ってもらいたいという気持ちが高まる時でもある。彼らには前日に夜遅くまで荷造りをしていた母親の苦労を知るすべも無い。
ということを考えている間もなく、いつものように時間が無くなり多少焦りながらダウンタウンにあるバスの出発場所へ到着した。
バスでの出発というのは現地に送って別れるのとは違った、乗り物で行ってしまう時に起こる独特のセンチメンタルな感覚があり、それはそれでまた辛い。
単純に、自分が離れるか、相手が離れて行くかの違いなのだが、どちらも別れの基本形であり、それぞれに見切りのポイントがある。連れていった時には自分たちが立ち去ることに悲しい決断力を要し、バスでの出発はそういった決断をしなくて良い分、「あ〜いっちゃたな〜」と徐々に相手が小さくなってゆく感じの切なさがある。
今回は始めてベンが離れて行く方を経験するためか、僕は妙にさみしく感じてしまい、別れ際にハグするとベンもうっすらと涙を浮かべている。去年同じ時期に書いたこのブログを読み返してみると、僕らが去る時にベンはキャンプのベッドで泣いていたとあるのだが、今回は大泣きをするというのではなく、観念したかのように言葉も少なく一人バスへ乗り込んでいった。
そもそもキャンプには行きたがっていたわけだから、何も観念する必要も無いわけなのだが、いざ行く事になると急に寂しくなるというのは僕にも良くわかる。
バスの中に消えて行くベンを見ながら、僕も半ベソをかいていたのだったが、こういう時によく考えてしまうのが映画やテレビでみたシーン。その時思ったのは戦地に子供を送り出す親の姿で、キャンプですらこんな気持ちになるのだから、それが生死のかかった場所であるならば、親にはどうにも耐えられるものでは無いだろうなと言う事だった。
そんなことを考える癖のお陰で想像が膨らみ、止まりかけた涙がまた奥から吹き出してきてしまうので、すぐに違うことを考えるようにしないといけない。
ところが、感動の別れの後、バスはすぐに出発するのかと思いきや、10分経っても20分経っても一向に出発しない。おまけにバスの窓はスモーク・グラスで中からは見えるのだろうが外からは全く見えず、ベンがどこの席に座っているのか見当もつかない。
30分するとタクシーが到着して、遅れてきた子供達が楽しそうにバスに乗り込んでいった。遅れて子供を連れて来た親も、悪びれる様子も無く平然と振る舞い、周りの親達も冷たい視線を浴びせる訳でもない、アメリカンな遅刻。
そしてバスは出発していったのだが、僕はバスがいつまでも出発しない事にイライラしたせいか、半べそをかいていた事もすっかり忘れ、すぐに車に飛び乗り弟の方のキャンプへ向かった。
めでたしめでたし