発達障害者、発達障害児の親御さんが、診断がついてから途方にくれがちな理由を考えてみた

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Nice!

一昨日フラフラと連続ツイートをしたのを勿体ながってトゥギャッターにまとめたのだが、なぜか多数シェアされたりしているようなので、せっかくだから記事にしておこうかと思い、多少加筆してまとめてみた。

診断後の「さてどうすれば?」問題

発達障害診断後の定番のセリフといえば

「今まで大変でしたね、これからは障害に合った工夫をしながら、周りの人の理解をうけつつやっていきましょう」
である。

発達障害に関する一般書にもこういうことが書いてあるものが多い。というか、それがほとんどだ。

診断にショックを受けるか、ほっとするか?その辺はまあ人それぞれだろうとは思うが問題はしばらくして、さてこれからどうしていこうかと考えはじめた時である。

書籍で提示されている工夫は、構造化の類いがちょっとと、あとは「こういうふうに理解をしてもらいましょう」である。つまり当事者自身(発達障害児の親御さん)が自分だけ(親御さんなら家庭の中で)でできることはわりと少ない。

そして、診断をうけるきっかけになることの多い社会適応の問題にどう対処していけばという観点からの、自力でできる「こうしてみたら」というものはさらに少ない。

これでは自分でどういう努力していけばという部分で途方にくれて当然だろう。

なぜ理解に依存したくなるのか?

ネット上の当事者の声でも、もっと社会の理解をという言う声も多いが、医療や福祉サイドが自力でできるものを提示していないから「理解してもらわねば」という方向にばかり向いてしまうという面もあると思う。

まあ、二次障害がバリバリに重いときにはまずは薬物療法や休養が必要だとは思うが、そこを多少脱したら結構できることはあって、負荷をさげるための環境調整、姿勢や睡眠、体力対策としての身体アプローチ、言語や社会的知識の未学習や誤学習の対策 そして模擬or実地の運用トレーニングなど、最近はかなり選択肢も豊富になってきたと私は思っているのだが、どういうわけだか医療も福祉もその辺あまり積極的でない。

「社会の理解を!」というのが一概に悪いとは言わないが、実際問題それだけではあまり説得力はない。自助努力が見えないと他人まかせに見えてしまいやすいので積極的に乗れないし、自分でできることが少なければ要求が過大になりがちということもある。そして過大なものは当然受け入れられない。

(このあたりは、夏前に「発達障害者(児)支援をどうデザインするか? -社会性の障害による困難には相手があることから-)」という記事でも触れた)

それで「理解が広がらない、楽にならない」と嘆いたりという方向にいく人も結構見かける。

ただまあ、声を上げる人は目立つが、声を上げない人のほうが多いのが世の常だ。

発達障害者も、発達障害児の親御さんも、実のところ「どうしていけば?」だらけなんだと思うのだ。自分では何も努力しないで全面的に周囲の理解でなんとかすべきと思ってる人はたぶん少数だと思う。

自力でとりくめるものこそが必要

そして、実のところ、二次障害があっても、ある程度頑張りどころの見当さえつけば、がんばれる人は結構多いと思う、そしてたぶんその方が二次障害も軽快しやすいとも。見通しがよくなるだけでも大違いだろう。

もちろん自分でがんばれれば自己肯定感も上がるという効果も期待できる。

よく発達障害者と定型発達者では文化圏が違うのでトラブルが起こりやすいというようななことを言う人がいるが、社会生活上問題となりやすいのは文化の差異といった側面よりも、身体的な問題(感覚面含め)や未学習、誤学習の問題のほうがずっと大きいと私は思っている

身体的な問題

感覚過敏を無理にがまんすればそりゃ疲れる。

姿勢がわるければ疲れやすいのも当然である。

睡眠の質を確保できてなけりゃそりゃ頭が空転しやすいだろう。眠れないというのもよく聞くし、寝ても寝てもだるさが取れないなどというのは、たぶん睡眠の質を確保できてないんだろうと思う。

文化的側面と未学習・誤学習という側面

発達障害者では、プロ野球の話で盛り上がるより機械ものの話で盛り上がれる人のほうが多い…これは文化の差異に近い部分だと思うけど、これ自体では社会適応上の問題にならない。

問題になりやすいのは、あまり興味のないプロ野球の話をネタに話しかけられたときの返答の表現。角の立ちにくい表現をしらない(=未学習の状態)と当然角がたつ。

その辺をしっかり分離して考えた方がいいとも思う。

しっかり指向性の差異みたいな部分とそうでない部分をわけて、がんばったほうがオトクな部分を明確にしといたほうが、がんばりやすいとも思う。

見通しが重要だからこそ

もちろん、二次障害で一時的に薬療が必要なときはあるかもしれない。ただ薬療から離れたときにどうがんばっていけばいいのか見通しがないと、そこから不安が起こるのは当然だし、そうなると二次障害も再燃しやすいと思う。

発達障害児者には見通しが大事ってのをよく医療や福祉の専門家がいうけど、それなら本人ががんばるための見通しをしっかり持てるような支援をして欲しい思う。

大筋の見通しがあれば細かいことの見通しがちょっと悪いくらいのことはわりと気にならないものだと思う。

おまけ-狸穴猫の考えるとっかかりの一歩-

ここまで書いておいて何にも具体策を提示しないのもなんなので、私自身がこうしてきたよってなところや自助会で当事者さん達と接してきた経験などから、とっかかりはこんなもんかな?ってなのを書いておこう。

身体面

知覚と身体に楽である状態ってのを教えてあげる。

不眠とか、睡眠時間確保できてるはずなのにだるいとか、それだとなにやるのも億劫になるし、疲れからの回復も遅くなる。ずっと続いてると当たり前になってしまうのでそれが問題だと意識しにくい問題。でもここはやっぱり基本でしょう。

  • 視覚と聴覚は特に優先して楽させてみる。
  • あとは睡眠の質の確保。

感覚過敏、特に視覚や聴覚は他の人との比較がしにくいせいか、過敏があってもそれに気がついていない人もけっこういる。サングラスやブルーライト軽減ツール・アプリ、フォントの調整、ノイズキャンセリングヘッドホン、デジタル耳せん等、いっぱいツールはあるので使える場合は使ってしまうとかなり楽。

睡眠の質をあげるにはとにかく身体を緩める。
金魚運動とかあべこべ体操とか、ぬるめのお風呂とか、リカバリーウェアとか、ハーブティーとかアロマとか…いろいろあるよね。
意外かもだけど腹抱えて笑いまくるとあちこちほぐれる。爆笑系の本や爆笑ネタサイトも私はよく使ってる。

自分の身体を自分にしっくりこさせる。

感覚統合訓練が有名だけど、ボディワークとかもいいよね。いろいろあるよ、フェルデンクライス、操体法、気功、ヨガ、ピラティス…。ゆっくりってのがいいみたい。
五本指ソックスはいたり、片足立ちするだけでもかなり感覚がつかみやすくなる。

自分の身体が自分の感覚にしっくりこないと立ち座りの姿勢や歩き方もくずれやすい。姿勢が悪ければ疲れやすいのは当然だよね。

学習・認知面

学習やチャレンジを阻害するタイプのヤバい誤学習を排除する

「正解はひとつ」
社会的なことに関しては正しさなんて人の数だけあるよ。人間の思考も結構多様だから。
「みんなと仲良くしなきゃいけない」
しなくてもいいよ。基本失礼でなきゃいいんじゃないかな。距離をおくほうがいいこともある。
「金儲けは汚い(悪いことだ)」
わきゃないわ、お金がまわらくなったら世の中のあちこちがストップしちゃう。他者に価値(もの・サービス等)を提供してそれに見合った対価をいただくってのは決して悪いことではないよ。どう稼ぐかどう使うかの問題だよね。

言葉や言い回しを学ぶ
心のもちかたの本読むより言語表現の本のほうが役に立つと思う。割とメジャーな表現を知らない、使えないってこと(未学習)は結構多い。

  • 「おそれいります」
  • 「お待たせしました」
  • 「お気遣いありがとうございます」
  • 「助かります」
  • 「お気をつけて」

こういうの、使ったことないなら言うの練習してみるとかね。

とまあ、こんなところで今日はおしまい。

 
 

 

 

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