ASD者の苦悩・生きづらさは必然じゃないよ!-アスペルガーライフブログを書き始めたきっかけから-

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Nice!

アスペルガーな狸穴猫は生きづらさをろくすっぽ感じていないという現実「生きづらさ」という文言、それはあちらこちらの発達障害関連のイベントのパンフで見かけるし、あちらこちらのSNSなどで発達障害当事者が話題にすることも多い。それに疑問を抱く人は少ないだろう。まあ、二次障害なりなんなりでしんどい思いを現在しているという人はいるだろうから、それを称して「生きづらさ」と表現しているのだろうと理解していた。確かにPTSDが酷かった頃、すなわち疑似的な二次障害状態だった頃は私もかなりしんどかった。毎日鬱々としていたこともあったし、気力も不足していた。おまけにパニックを起こすことも結構あった。あの状態が生きやすいかと問われれば当然否という結論に達する。となれば生きづらいというのもまんざらわからない話ではない。だが、どうもそれだけではなさそうだと言うことに1年ほど前に気が付いて実は私は頭を抱えた。どうやら二次障害抜きにしても「生きづらさ」はあるらしい。啓発に熱心な人達はそれを「特性ゆえの生きづらさ」だという。人づきあいが苦手だとかは、多少は気持ちががわからないでもない。私も得意かと言われればかなり疑問だったりする。(気にしてないけど)が、わからなくなってくるのは「社会が受け入れてくれない」…という系統のものである。全くわからない。今日はそこのところをちょっと考えてみる。森口奈緒美さんの「変光星」との出会い唐突だが一冊の本を紹介しよう。「変光星」は日本での成人の自閉症者本人が語る本のはしりというべき本で、だいぶ前に発行されたものだ。一旦絶版になり、最近になり別の出版社から復刊された。↓復刊されたもの変光星──ある自閉症者の少女期の回想森口 奈緒美 遠見書房 2014-07-01 売り上げランキング : 96038

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by ヨメレバこの本に出会ったのは、アスペルガー症候群という診断を受けた直後、病院の事務所脇に設置された図書室の本棚にあったのを手に取ったのだ。著者の森口奈緒美さんは私とほぼ同年代、小学校時代に過ごしたという地域も私の実家から30キロと離れていない地域だそうだ。学校時代のトラブルのエピソードも私の経験と似たり寄ったりだし、いじめのスタイルを含め同時代であることを感じるには感じるだが違和感がとんでもない!。あまりの暗さにクラクラする。エピソードごとに「ふんふん、似たようなことあったあった」と思うのだが、その出来事の感じ方の部分になると思わず「私こんなに不幸じゃないなあ」と言いたくなる。全編その連続なのでとめどなくUターンを繰り返すような妙な気分である。ふと、「もし私が小学生当時のことを詳細に書いたとしたら」と考えてみたが、途端に吹き出してしまうハメに陥った。かなり勇ましい武勇伝の連続になってしまうだろうことが想像できたからだ。私の小学校時代のいじめについては、診断時に生育歴として医師にはなしたとき医師が「それだけでPTSDになっても不思議ないですね~」と評したくらいだからそれなりに酷いものであったのは間違いなさそうなのだが、脳みそに出来事の記憶はしっかりあるものの後遺症的なものは残っていない。「変光星」を読み終えた天の邪鬼な私の脳みそは、「別にアスペルガーだからって悩みこんでなくてもいいんじゃない?」という言葉を出力した。私はそれから何冊か「当事者本」を読んだ。地球生まれの異星人 (泉流星 著)自閉っ子、こういう風にできてます! (ニキ・リンコ 藤家寛子 著)アスペルガー的人生 (リアン・ホリデー・ウィリー 著)ずっと「普通」になりたかった。 (ゲニラ・ガーランド 著)森口奈緒美さんの住む世界は私にとってあまりに遠い世界だったが、比較的明るい「自閉っ子シリーズ」ですらかなり遠い世界だった。私そんなに苦労してない!確かに私の脳みそも相当クセがある。コントロールはしにくいし、音声に弱いなどそれなりに不便な部分はある。目的なく群れ集うのはあまり好きではないし、変な人と言われるのも昔からだし人の顔のおぼえも悪いが、それなりに友人もいる。ニキ・リンコさんの著述にあるような極端な認知も持ってこなかった(…つもり)。まあ失敗は多々あるが不幸感はあまりない。当時PTSD患っていてもたいして実はろくすっぽ不幸感を持っていなかったのである。こんな経緯で、たまには変なのがいても良いのではないか?という天の邪鬼な思いから、別にアスペルガーだからといって不幸や苦悩をけとばせないこともないのでは?という問題提起をしてみたくなり、私の思考をいろいろ綴りはじめたのがこのブログをはじめたきっかけの1つなのである。ASD者の苦悩や生きづらさを必然とする思考の危うさ人数の多寡は不明であるが、困り事を多少抱えていても苦悩を抱えてはいないという自閉症者は存在する…ということは確かだろう。私の知る範囲でもそれなりにいると思う。ここから導き出せる結論は単純だ。「ASD当事者の苦悩や生きづらさは別に必然ではない」ということに尽きる。だが、医療者や支援者の皆さんは苦悩を抱えた当事者を多く見ることになるためか、「ASD者の苦悩は必然」というように考えてしまうひとも中にはいるようだが、それは実はかなり問題をはらむ考えなのではないか?と思う。苦悩が必然だとなれば「根本的にはどうしようもない」ということになり。支援がなにも解決しない状態を作り出す。「○○するのが辛い」となれば「辛いんですね、なら○○しなくていいですよ」「○○しろと言われるのが辛い」となれば「まわりにそう言わないように障害を理解してもらいましょう」となる。下手をすると「○○したい」に対し「それは無理だから無理にがんばったら傷つきます、やめておきましょう」なんて感じで発展性のないアドバイスを垂れ流す支援者も少なくないハッキリ言ってしまおう、百害あって一利なしだ。確かにある状態、ある時点でできないことってのは結構ある。リウマチで膝がパンパンに腫れてる時に全力疾走…できるわけない(そんなときはやりたくもないが)ように、聴覚過敏でへろへろの時に集中力あげて高速で本を読むことはまあできないし、鬱バリバリの時に家事を完璧になんて…こなせない(鬱でなくても私は家事に熱心ではないがw)。必要に応じて一旦ハードルを下げることは時によっては必要だが、様々な手段によって「できる」を増やしていくことは可能だと思うのだ。人間失敗はある、というより何かやるときまるで失敗しないことのほうが少ないのだから、失敗で傷つくことを気にしてたら人生もったいない。幸いなことに近年感覚過敏や疲れやすさ、姿勢の問題などに打つ手も増えてきた。記憶や認知を補助するようなツールもこれまたたくさん出てきている。つかわなきゃもったいない。もったいないで終わる文が続いたということは生きづらさに埋没しないで済むコツはもしや「ドケチ」なのかないかという疑いも多少あるが、とにもかくにも別に必然ではないのであれば生きづらさを抱えるか抱えないかは選択できるのだ。「生きづらさ」を抱えた生き方とそうでない生き方、どっちがいい?と、最後に選択肢を提示して唐突に本稿は終わっておく。おまけ 毎度おなじみac.jpドメインやgo.jpドメインからお越しのみなさまへ苦悩抱え型の当事者とそうでない当事者の身体運動面や疲労面の比較研究してみて欲しいなあ。筋肉がらみのものだと足の接地面から重心測定とかできる機器とか使うと非侵襲てきなテストでも定量化しやすいかもだし、日立システムズの疲労計測システムもおもしろそうだ。QOLの調査票の結果との相関とかとってみたらったのしそうでない?