認知や考えが変わったら自己はどうなる?という発達障害当事者からよくきく不安に対して答えてみる

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Nice!

成人の発達障害当事者からときおり聞く不安に

出来ることが増えたりや認知や考え方が変わったら自分が自分でなくなってしまうのではないか?

というものがある。

直接聞かれた場合は

「別にそんなことないと私は思うねえ」

と私のもっている印象を答えておくことが多いのだが、結構深刻に悩んでいる場合もあるのかなあと感じたことも少なからずある。

「ありのままでいいんだよ」

などいわれれば、自分が変化してしまっては「ありのまま」ではなくなる気がするのかもしれない。
だが、「ありのまま」にこだわって、楽に過ごせる可能性を見落としてしまうのもまたもったいない気がする。

この疑問への説明をふと思いついたので書いてみることにしよう。

小さい頃自転車に乗る練習をした人は多いだろう。
その前後のことを思い出して欲しい。

自転車の練習をする前は

 「自転車に乗れるようになりたい」

と思っていたはずだ。

練習をはじめた段階で、自転車をうまくとり回せないことで

 「果たして自分は本当に自転車にのれるようになるんだろうか?」

という不安を覚えた人も多いかもしれない。

(そこを周囲の指導や励ましやら、乗りたいという思い、乗れるようになるはずだという信念等々で乗り越えていくわけだがその過程については今日の本題ではないのでちょっとおいておく)

さて、自転車に乗れるようになった後の考え方はどうだろう。

 「自分が自転車に乗れるのは当たり前」

と思ってはいないだろうか?

「自転車に乗れない自分」なんてのは記憶の彼方遠くにすっ飛んでしまってるだろう。

ここでちょっと考えてみて欲しい。

自転車に乗れなかった時点と、自転車に乗れるようになった時点の比較。
自分が自分であることに何か変化はあっただろうか?

殆どの人がないと答えると思う。

自己認知は変化する。
 自転車にのれない自分→自転車にのれる自分

出来ることも変化する。
 自転車に乗れない→自転車に乗れる

考えも変化する。
 自転車に乗りたい→自転車に乗れるようになるかか不安→自転車に乗れるのは当然

だが、自分が自分であることには変化がないはずだ。
行動の変化も認知の変化も考えの変化も自分が自分であることを何も変化させてはいない。

自分が自分でなくなるなんてことはないわけだ。
(考えやできることが変わるたびに自己が変化してたら人間やってけないだろうとも思うし、それは病態だ。)

「いわゆる自分を変える」というのは「自分が自分でなくなること」ではないのだ。

特性と呼ばれているような性質が薄れたら自分が自分でなくなってしまうのでは?

とか

自分が変わってしまったらいままでの考え方を形成してきた過去を否定することになるのでは?

なーんて不安になる必要はさらさらない。

一皮むけるだけのことだ。

エビ・カニだって脱皮して成長する。
人間も素直にそれを見習ったほうが成長できるのでは思う。

もちろん自分が気に入っている自分の性質・状態・行動はあえて変える必要はないだろうが、変えたいもので変えられる可能性のあるものは威勢良く変えてしまってもなにも問題はないということである。

成長期以降、あまり変化が目立たなくなるしのでいろんなことに「慣れ」が生じる。
「慣れ」は安心にも繋がることから、人間、定型・発達障害を問わず、年をとるにつれ段々変化に抵抗が生じ、、「変わること」への抵抗や不安を抱える場合があるのだと思う。

ちょいとおまけで、支援者の皆さまに。
発達障害者に「ありのまま」を強調すると、そこにこだわりを持ってしまう可能性もありますんでそこんとこよろしく。

こんなところで本稿おしまい。

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