ボストン・マラソンでテロによる爆破があり、TVで映像を見て・・とてもショックでした。
9/11のテロがフラッシュバックしてきました。
まこちゃんは 9/11のテロの時はショックで1週間くらい 学校に行けなくなりました。
何度もTVのニュースで爆破シーンが流れたのを見て・・
「大変だ・・どうしよう・・」と固まっていた俺様でした。
また外出できないくらいパニックになったらどうしよう・・と不安がよぎりました。
「ボストンはアメリカで遠いのです。かわいそうのです・・」と話していましたが、ふだんどおりに過ごせて ほっとしています。
ただ・・このシーンが流れる度に動きが止まって 固まるので、心理的にはかなりきているのだと思います。
日本の警察も・・オリンピックを迎えるまでにはテロに対応できるように こんな装備も必要だと私は思います。
パパは・・ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学中の研究員の方が心配で、メールでやりとりをしていたそうです。犯人が逃走中で 研究室に鍵をかけて外にでないように指示があったそうです。犯人が無事につかまり ほっとしました。
沖縄で とても信じられないような行動をとる 過激な集団の事が記事になっています。
この反対派の過激な行動は とても恥ずべき行為だと思いました。
フェンスに巻かれたテープの中には危険物が巻き付けられていますが、ボランティアの方達が 危険をかえりみず、テープをはずしています。
私は 現地に行って行動することはできませんが、ボランティアの皆さんを応援したいと思いました。
日本人として恥ずかしい・・ 反対派の過激な行動は 大きな危険を伴うので、やめて頂きたいと思いました。
普天間飛行場ゲート前 沖縄では報道されない過激な抗議活動
産経新聞4月19日(金)8時26分
オスプレイ配備に反対する市民グループがフェンスに巻き付けた赤いテープを剥がすボランティアの住民たち=普天間飛行場
前日までの陽気さが失(う)せ、一転して肌寒い一日となった14日。沖縄県宜野湾(ぎのわん)市野嵩の米軍普天間飛行場の野嵩ゲート前に早朝から、老若男女が集まり出した。全員、カッターナイフとポリ袋を手にしている。米軍関係者の姿も。
「そろそろ始めましょうか」
午前9時前、そぼ降る雨の中、全員が飛行場を取り巻くフェンスにへばりつくようにして、フェンスに巻き付けられている赤いテープを剥がし始めた。
昨年、同飛行場にオスプレイが配備されて以降、市民グループらがフェンスに赤いテープを巻き付け、オスプレイ配備反対と同飛行場の閉鎖を訴える抗議活動を展開している。
◆「反対派のやり方許せぬ」
この日集まったのは、こうした市民グループの運動に異を唱える住民たちだ。フェンスクリーンプロジェクト。昨年9月に若者が独自にテープの撤去を始めたが、ツイッターやフェイスブックなどで活動は口コミで広がり、メンバーは50人から60人に。昨年末、正式にプロジェクトとして活動を始めた。今では、毎週末、清掃を続けているという。年齢層も20代から60代と幅広い。
主宰者の一人の女性翻訳家(46)はカッターナイフでテープを剥がしながら「フェンスに巻き付けられた赤いテープは景観を損ねることも問題だが、それにもまして反対派のやり方が許せない」と話す。
彼女によると、赤いテープの中にガラス片や針金が巻き込まれていることがあり、剥がすときに手を切ってけがをすることも多いというのだ。
雨脚が強くなってくるが、住民の数は減らない。米軍関係者と家族の姿も多い。同飛行場の司令官、ジェームス・フリン大佐は「市民のボランティアを知って参加するようになった。フェンスは宜野湾市民のもの。自分は責任のある立場。市民と一緒に清掃するのは意味がある」と話した上で、こう続けた。
「反対派の抗議活動は激化している。(米兵の)通勤時間帯を狙って集まり、車に砂や土を投げつけたり、道路に寝そべったりして、暴力的、攻撃的な嫌がらせ、通行妨害などの行動に出るものもいる」
◆米兵への“攻撃事件”
“事件”が起きたのは3月27日午前10時半ごろ。同飛行場の警備を担当しているパトリック・アダムス氏(50)が、野嵩ゲートで反対派の活動をチェックしていたところ、2人の男性が突然、走り寄ってきて、1人がいきなりアダムス氏の左胸をめがけて殴りかかってきた。同氏は反撃せず、全治1週間のけがを負った。
「抗議をするのは自由だから構わないが、暴力は絶対にだめだ。自分に手を出した男は、以前にも、警察官や海兵隊に攻撃的な行動に出ている。それは写真も動画も撮影している」
アダムス氏は診断書をつけ警察に被害届を出したが受理されていないという。“事件”は一切報道されなかった。
アダムス氏によると、反対派の過激な行動は頻繁に起きるという。
「信号で止まっている車の窓からメガホンを突きつけて、怒鳴りつけたり、プラカードで車をたたいたり、フロントガラスに押し付けたり…」
関係者によると、米海軍兵士が同飛行場から国道に出ようとしたところ、反対派の通行妨害に遭い、視界を失い、追突事故を起こしたこともあるという。
同飛行場ゲート前で展開される抗議活動は大きく伝えられる。
だが、同時並行で展開されているクリーン活動や米兵に対する過激な抗議活動は伝えられることはない
沖縄が持つ語られざる顔である。
(産経新聞 那覇支局長 宮本雅史)
ARIGATO TOMODACHI ありがとう友達!
私の実家は岩手県の県南地区にあります。東北大震災では大きな被害は無かったのですが・・
海兵隊がいてくれて良かった。米軍が日本にいてくれて良かった・・・。
この感謝の気持ちが薄れる事はありません・・・
在日米国海兵隊HP
https://www.okinawa.usmc.mil
ニュース (4月19日)
https://www.okinawa.usmc.mil/News/130419-oshima.html
日本の高校生たちが太平洋を渡り、感謝の気持ちを表す
気仙沼の高校生たちがサンディエゴ海兵隊新兵訓練所を訪れ、「トモダチ作戦」に関与した海兵隊員らに感謝の言葉を述べました
【カリフォルニア州サンディエゴ】 2011年3月11日、未曾有の大震災が日本を襲いました。
東日本大震災では、警察庁のまとめたところによりますと、死者15,854人、行方不明者3,155人となっています。
震災後に日本政府が先導した「トモダチ作戦」のサポートのため、在日米軍は3月12日から5月4日にかけて、24,000名の軍人、189機の航空機、24隻の船舶、90億円以上もの支援を行いました。
そして2年以上が経過した今年3月26日、宮城県気仙沼高校の高校生たちがサンディエゴ海兵隊新兵訓練所を訪れ、「トモダチ作戦」に関与した海兵隊員や海軍兵に感謝の気持ちを述べました。
大島出身の小野寺真美さん(17歳)は、「当時、英語があまり話せなかったので、海兵隊員にお礼を伝えることができず、悔んでいました。そして学校でサンディエゴ派遣プログラムのことを聞いて、直接会って感謝を伝えることができると思ったんです」と説明しています。
震災の影響を大きく受けた子供たちの一人だった小野寺さんは、当時の体験や復興作業を手伝ってくれた海兵隊員のことを思い起こしました。
サンディエゴ訓練所で作戦担当チーフのハワード・タイット曹長は、「とてつもない惨状で、言葉では言い表わせません。全面崩壊で、回収可能なものは何もないように思われました」と当時の感想を述べています。
「トモダチ作戦」当時、沖縄に展開する第31海兵遠征部隊の中隊作戦担当チーフだったタイット曹長は、サンディエゴ訓練所で日本の高校生たちと面会しました。
サンディエゴ海兵隊新兵訓練所を訪れている気仙沼高校の女子生徒がプレゼントを頂くところ
タイット曹長は当時の大島での体験を話し、救援任務を終えて立ち去る時に現地の人からもらった「別れの紙テープ」の切れ端を取り出しました。
タイット曹長は、「現地を離れる日に、子供たちや住民のひとたちが感謝の言葉を伝えに波止場まで来てくれました。彼らはこのような紙テープを取り出し、私たちが一端を、そして彼らがもう一方の端を持って互いに紙テープを引き伸ばしました」と説明。
大島の皆さんが感謝をこめて 海兵隊のみなさんを見送るところ・・
ちょっと前までは日本のあちらこちらで見られた、客船が離岸するときに見られた光景が、大島では今でも友好関係の象徴として、別れ際に送る人と送られる人が別れを惜しんで、「別れの紙テープ」で見送る。
タイット曹長は、「私たちの途切れることのない絆を表しています。たとえ離れ離れになっても、援助したことがきっかけで、私たちはずっと友人のままです。当時の現地の状況を思い起こすと、私たちが費やした時間は取るに足りないように思えますが、お礼を伝えに来たのは、彼らなりの感謝を表す方法なんですね」と話しています。
高校生たちの多くは、千切れた「別れの紙テープ」を取っておいてくれた人と出会ったことが無かったので、感動的な思い出の品として、タイット曹長が思い出の品を取っておいてくれたことに感銘を受けました。
タイット曹長は、「感謝のしるしとしてもらった、ささやかな物を大切に取っておいたことを彼らに伝えたかったんです。全てを失った人たちが、気力を振り絞って見送りに来てくれ、寒い波止場に立ってお礼を述べ、さよならとずっと手を振ってくれていました」
高校生たちがサンディエゴ訓練所を訪れたことは、太平洋の両端の友好関係が永久に続く証です。多くの人たちは、アメリカ軍がほどこした援助が日本人の心に永続的な影響を及ぼしたと信じています。
小野寺さんは、「大島の人たちは、感謝の気持ちでいっぱいです。
海兵隊員のことはずっと記憶に留め、私たちのためにしてくれたことは一生忘れません。
大島の人たちは、アメリカの友人や支援に来てくれた人たちのことを信頼しています」と力強く語りました。