アスペルガー脳は思い出の共有を妨げる

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Nice!

散歩をしながら景色を楽しむという感覚が、私には理解できなかった。アスペルガーの私は、ぼんやり歩いていると、地面しか見ていない。それがずっと私の「普通」だったから、他の多くの人がそうでないことに気づかなかった。例えば、小学校の頃の遠足。私の記憶には、山歩きをすれば、地面がひたすら茶色かったことや、雨の名残でぬかるんだ土がスニーカーを汚したこと、地面を縫うように木の根が伸びて山道で階段の役割を果たしていたことが思い出される。どこへ行ったのか、記憶にない。私の持つ地面の記憶だけでは、過去どこへ行ったのか探ることもできない。私が景色を見るためには、立ち止まらなければならなかった。歩き疲れたら立ち止まる。立ち止まったら木の枝を見上げる。遠足の時、木々は大抵緑色の葉で埋め尽くされて、暑い日の照りつける山道に陰を作っていた。私はなるべく日陰に立ち止まり、頭上を覆う枝ぶりの細やかなことに魅きつけられた。根と同じように放射状に広がる様が面白かった。私の過去のアルバムは、だから、枝と根ばかりだ。どこへ行ってもそんな写真しか残らないものだから、人に見せるとものすごく呆れられた。同行者と「遠足先を代表する景色」に写ることが、遠足時のカメラのまっとうな使い方だったらしい。私の撮った写真は、他の人々にとって価値のないものであることが多かった。撮った私でさえ、後から見たときには見所が分からない写真に成り下がってしまった。せめて「遠足先を代表する景色」に注意が向けば、「さまざまな名所に詳しいアスペルガー」になれたと思うのだが、不便なことに、私の関心は名所に向かうことがなかった。私は人の群から離れて、しんとした森林の涼やかな空気を味わった。集団についていかないので、遠足のたびに先生には怒られた。体力のない私は、人より多く休まないと疲れてしまう。そして、疲れを感じたときに、木の陰に入っては休んだ。おしゃべりしながら早足で歩く人々は、私には理解不能だった。人々は他愛ない話を夢中でしているように見えながらなお、時折現れる遠景には必ず目を留めて、はしゃぐ。彼らが立ち止まるポイントには、必ず彼らの見るべき何かがあるのだ。彼らは、何もない道に立ち止まったりはしない。私は彼らから距離を置きながら、どうして彼らには歩き、しゃべり、景色を見ることが同時にできるのだろうかと、不思議に思っていた。定型発達者の夫と散歩をすると、夫はいつでもまんべんなく景色を見ているようだ。ことあるごとに夫は、地面に向きっぱなしの私の視線を景色に向けようとする。それで私は、定型発達者は、歩くことと景色を見ることが両立することに気づいたのだ。アスペルガーの同時並行処理ができない脳の特性が、散歩中にも影響しているようだ。定型発達の夫がどうやって景色を見ながら歩いているのか、アスペルガーの私は真面目に尋ねた。【定型発達者の散歩中の認知】・特に注意を払うことなく、ぼんやりと景色を見ている・人のおしゃべりは半分聞き流しているが、相手に不自然に思われない程度に話に参加できる・ぼんやりと景色を見るといっても、目の端で見ているのではなく、あちこちに視線を合わせて網膜の中央で見ている・視線は景色のあちこちに自動的に移動する・足下にも自然と視線が向くので、物に躓くことはないアスペルガーの私の場合、意識的に周囲を見るよう逐一注意することなしには、視線の移動が起こらないように思う。自然に任せると、視線は地面に固定される。人とおしゃべりをしていると、話の内容に注意が集中して、景色は全く入ってこない。おしゃべりしている間に地点Aから地点Bへ移動している、という感覚だ。家を出たと思ったら、次に思い出せる周囲の状況が、三十分歩いた先の駅だった、という案配だ。それは、例えば一人で歩いていて、自分の思考に没頭している時も同じである。酷いときには、家を出て、次の記憶が目的地だったりする。本当にワープしているような感覚におそわれることもある。特別考えごとをしているわけでなくても、記憶が飛ぶのだ。歩くのがおっくうだと思っているとき、ワープすれば便利だと、小学生の頃には既に思っていた。だから、歩いているときは、なるべくワープする感覚に持っていくように心がけた。何度も歩いた道なら、ワープはうまく行く。道にとりたてて注意せずとも差し支えないほど、目的地へたどり着くまでの段取りが脳内に組み込まれているのだろう。ワープ中の私は、注意がひたすら内部に向かっていて、外部へ向かう注意の配分が、きっと0%だったのだ。通学中の記憶が消えることを、アスペルガーの私は当たり前に思っていたけれど、定型発達の場合はそんなことにはならないらしい。もっとも、他のアスペルガーの場合に私と同じようなワープ体験があるのかどうかすら、私は知らないが。最近は、散歩中、景色を意識的に取り入れるように心がけている。地面を見るだけの散歩はただ不毛に感じるだけだったけれど、周囲の情報を意識的に取り入れるようになってからは、散歩中に外部からの情報を楽しめるようになってきた。しかし、視線を意識的にあちこちに動かし続けることには相当な注意力が必要で、私はとても疲れてしまう。アスペルガーの私が歩くことと景色を取り入れることを両立するためには、ぴんと張りつめて散歩をしなければならないのだ。気がつくと、私の視線は地面に戻ってしまう。もし散歩中の視線の移動が自然にできるようになればきっと私は定型発達者に近づけるように思うのだが、同時並行処理が難しい脳が定型発達者の物の見方を形ばかり真似しようとしても、意味がないと思う。しかし、もしも歩きながら景色を楽しむことができるようになれば、散歩が楽しいものになるだろう。アスペルガーの私が一人で散歩を楽しむためには、物に躓かないようにこれまで通り足下をぼんやりと見て、時折立ち止まって「景色に気を配る瞬間を作る」くらいのバランスがいいのではないかと思う。定型発達者の夫と散歩する場合、歩くペースは合わないが、夫は私に合わせて歩いてくれる。私が景色に100%の注意を向けている間、夫が私の足下に注意する。興味深い対象があれば、私は立ち止まり、景色にファインダーを向ける。夫が歩きながら私の足下にまで気を配ることは、私が注意を分散する方法を身につけるより遙かに現実的な対処法だと思う。景色に注意が集中して地面を見ることを忘れてしまうのは、足元が覚束ない場所ではさすがに危ないが、晴れの日の平地ならあまり問題ないようだ。子どもの頃の遠足の記憶は変えられない。人が過去の遠足の話をするとき、私は話題についていけないだろう。私の持つ根と枝の記憶に共感してくれる人は、多分いないだろう。根と枝について極めて、私の感性を他者に伝わるように表現する手段を模索するのも一つの道だとは思うが、それは相当難しいことだし、世界の広がりが限定される道だと思う。それよりは、これから旅をするとき、木の枝や根に吸い寄せられるのではなく、名所に目を向けるよう意識して努力するならば、他者との話のとっかかりが広がるのではないか、私の視野が広がるのではないかと夢見てしまう。ちなみに私は、歩きながら飲み物を飲むこともできない。私の脳は、どうやっても同時並行処理ができない作りになっているようだ。