当直明けて帰宅。小雨に晴れ間が見えたのでロードバイクを持って出て、自宅前の路地で発進・停止の練習。靴底とペダルが貼り付く「ビンディングペダル」の着脱に習熟することが本旨である。片足をペダルにはめて発進し、もう片足もはめて2~3回回す。それから片足を外してサドルの前方へ降りながらブレーキをかけ、停止すると同時に足を地面に着く。その発進・停止を延々繰り返す。とくに停止が難しい。ハーフクリップにはだいぶ慣れているが、ビンディングは一段階外れにくい。停止する前に意識して外しておかなければならない。ママチャリのように車輪の回転がとまったときに傾いた方の足を地面に着こうと構えていると、足をペダルにとられたまま転倒することになる。立ちごけというらしい。いちおう両足とも練習したが、私の場合は左足をペダルに付けたままにして右足を脱着する方が簡単なような気がする。しかも私が立ちごけしそうになるときは、だいたいビンディングを付けたままの足のほうへ倒れそうになる。なんやかやで右足を脱着するよう心がける方がよいのかなと思っている。とりあえず車道のほうへは倒れたくないので。スポーツに人生への教訓を求めるのは野暮の極みだというのは承知の上だが、練習しながら以下のようなことを考えた。ウチダ先生のブログで習い事に関する論考を読んでなるほどと思った記憶がある。曰く、人間、失敗するときはその人に特有の失敗の仕方をする。たとえ習い事であれ、失敗のパターンというのは、いかにもその人がしそうな失敗であるという。仕事でそうそう失敗というのは許されないが、習い事で失敗するのは自分の失敗のしかたを精査するという点で役に立つ。私の失敗のパターンはと考えてみる。おそらく、撤収のための余力を残していないというのが私の失敗のパターンである。ついもう少しもう少しと粘ってしまう。粘れなくなるまで粘って、停止せざるを得なくなってから停止する。たぶんそれは良い方向へ働くこともあるのだろう。学生時代には、とくに高校まではわりと学業の成績が良かったほうなんだけど、勉強にしても試験にしても体力や時間のゆるすぎりぎりまで粘っていたのが大きかったんじゃないかと思う。しかしそれはくたびれ果てたらそのまま寝るなり答案を提出するなりすればよい状況でこそ最善の結果を生む行動方針であって、停止・撤収する過程にもそれなりの労力を要する状況ではときに破滅的な結果につながる。先だって日吉ダムまで行ったときも、帰りの行程を考えずダム湖畔で時間を使ってしまって、帰りはあやうく知らない道を夜間走行するはめになるところだった。ビンディングを外して止まるということが苦手なのも、スケールは小さいけれど、同じつながりではないかと思う。今までの自分の習性として、止まる寸前までは走ることを考えている。走れなくなったら止まればいいのだと。ロードバイクではそうではなくて、止まる手前のある地点・ある時点から、止めることを意思して止めてゆくことが必要になる。まあ一連の手順を慣れて記憶したらそう大層なことではなくなるんだろうけれども。いずれNICU施設の集約化が始まる。中小規模の施設は刈り込まれ、大規模施設だけが生き残れる時代が来る。よほど地理的に広い範囲をカバーしなければならないのならともかく、今の京都府南部をカバーするのにいまの施設数は要らない(もちろん病床数は足りないんだけど)。今の施設をすべて生き残らせることと、周産期医療全体のクラッシュを防ぐことと、どちらを優先すると聞かれて迷うほど厚生労働省も新生児学会上層部も馬鹿じゃない。ここは日本なのだから、「自主的な撤退」を指導するというかたちで、刈り込みの波が来るんだろうと思う。それと同時に診療報酬の体系が、大規模施設ほど経営的に楽になり小規模だとどう足掻いても赤字になるように巧妙に変化していくだろうと思う。そして地域医療を計画する地方公共団体の部署が、小規模施設の撤退を遺憾ながらと口だけ言いつつ許可し、撤退した施設の病床数だけ大規模施設に拡大を許可する。そういうかたちで、集約化が水上艦と潜水艦とで攻め込んでくるんだろうと思う。どこかの時点で、うちのNICUの撤収も考えなければならなくなるんだろうなと思う。総病床数が200に満たない病院のたった9床のNICUには、日赤や大学や徳洲会のNICUを吸収して生き残るという道はとうていなさそうに思える。今の自分のマインドセットのままでNICUを運営していくなら、何らかの事情で停止を余儀なくされるまでは猪突猛進していくんだろうけれど、それだと停止するときのクラッシュが大きくなる。衝突か立ちごけか。止まった後は撤収しなければならないが、余力を持って明るいうちに家に帰り着けるか、あるいは闇夜の知らない山道を車のヘッドライトに怯えながら走り続けることになるのか。その始末の付け方次第で、頑張って前進している今の仕事に対する後世の評価も異なってくるんだろうと思う。まあ後世の評価はいま気にしても仕方ないかもしれんが、しかし停止・撤収に際して私に許容できる負担といえば病院の赤字くらいだ。病院上層部とは意見が違うかも知れないけれどね。私は赤ちゃんを殺したくないし、若手医師や看護師にバンザイアタックを命じたくもない。そういう華々しいクラッシュを迎える前に、明確な意思と計画をもってNICUを撤収したいものだと思う。たぶん私はNICU部長として壮大なチキンレースを戦っているんだろう。あんまり早く撤収にかかったら臆病者だと言われるし、クラッシュするのは愚か者だ。臆病者と愚か者の割合を最適化するくらいのタイミングで撤収にかかるべきなのだろう。