誰が読むんだ

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Nice!

締め切りのある原稿書きを大小ひとつづつやった。大きいのは業界筋の雑誌にひとつ。小さいのは病院の広報誌にNICUの紹介記事。広報誌って、どこの病院でも会計カウンター前の待合室でラックに入ってるあれだが。妙に手応えのある紙で全ページが無意味に4色刷の、敗戦直前の新聞みたいな見開き4頁のやつ。20枚ばかり入っているうちのいちばんおもての2~3枚が手垢ですれてカドが折れている。誰が読むんだこんなもんと思っていた。まさか自分がかかわることになるとは思ってもみなかった。でもまあこれも部長手当のうちかとも思った。それに院内広報誌でさえNICUは全く相手にされないってことになったら悲しいしね。800字から1200字くらいでNICUについて書いてくれと言われた。そんなブログの記事一つ分くらい明日にも書けるわと思ってお気楽に引き受けたのだが、いざ書き出してみるとずいぶん困難だった。ようは、くりかえすが、誰が読むんだこんなもんということだ。読者が全く見えない。読者が見えないからどれくらい謙遜すればいいのかわからない。全く謙遜しなければ自画自賛で底が浅い文章にしかならない。しかしまったく知らない相手にあんまり謙遜しすぎると、しょせんこんなちっぽけな病院のNICUなんだから本当にたいしたことないんだろうと思われそうだ。たいしたことないってのは本当かもしれないが、なにもそう情けない事実をわざわざ広報しなくってもよかろう。功徳というのは陰で積むものだよなと思う。少なくとも京都で仕事をするならばだ。広報誌とかウェブサイトとかで語りすぎるのって、今ではもう時代に遅れているような気がする。それはホリエモンとか奥菜恵の前の旦那さんとかが全盛期だった時代の風習であるように思う。今は演出してでも地道さとか着実さとかを身にまとう時代だ。京都の商家はみんなそうしてきたんじゃなかったか。