小さくなった部屋の方に荷物を運び込む。なにしろ狭いので、インチ単位で家具のサイズを測り置き方を考えるのだが、気づくと一人で自問自答している。独り言を言うようになると、どうにも癖になる。ベンに注意をしておきながら、最近では自分で独り言を言っていることが多いのに気がついた。周りからみたら変に思われるから、という理由だけの為に我慢している独り言は自閉症であるベンにとっては、控えなければならない括弧たる理由の無いものなのだろう。勿論、声が大きくなってしまったり、同時に手や体を叩いたりするのは確実に騒音になってしまうのだが、独り言自体にはそんなに罪は無い。というか、一歩街に出てみればどうだろう?街には独り言があふれているではないか。日本語に置き換えれば、定番の「クソっ」、「まーどうしましょう」、直訳すれば「あばずれの息子」と日本なら舌打ちひとつで済んでいそうな事でも言葉となって表現されている。考えてみると、瞬間の気持を表現した言葉は、それを言う事で自分は勿論他の人にまでも自分の気持を知らしめる事になっているのだが、実はそこがミソなのかも知れない。「頭にきたぞ」とか、「びっくりしたなあ」という自分だけの気持を心にしまわずに、周囲の人に伝える作業をすることによって、直接の気持にかかる負担を軽くするためなのか。それは別に聞いていてくれる人が居なくても、本能的に反応してしまう類いの衝撃緩和剤的な効果もあるのだろう。NYのでひときわ多く聞かれる汚い言葉も街のテンションの高さからすれば、いた仕方ない事なのかもしれない。頭の中で起こった空想を言葉に出してしまうベンは、明らかに行き過ぎなのだが、言葉に出して音になるということが彼らなりの確認作業なのだろう。確かに言葉にしてみると安心することはたくさんあって、何だか演奏がうまく行った安心感との共通点もある。僕らミュージシャンもベンと同じようにいつも楽器に喋らせていた。