H.G.ウェルズの遺稿が発見された。作品「タイム・マシン」に関連する文章と思われる。以下に引用する。
タイム・トラヴェラーは彼の到達した三千万年後の世界について、わたしたちにもう少しくわしく話していた。しかし、それまでは奇っ怪な内容ながら理路整然としていた彼の語りが、なぜかそのときだけは全くわけのわからない内容であった。貴重な証言を一部でも削除するのは忍びなかったが、報告の完全性を損なわぬよう、その話だけは出版時に割愛した。以下は、その内容である。
ふと、彼方に動くものが見えた。こちらへ急速に近づいてきた。それは猫だった。猫が魚をくわえて走ってくるのだ。いちもくさんに、なにものかから逃れようとするかのように。
この三千万年後の世界に猫が!しかし追ってくるものの姿にはさらに驚かされた。人間によく似た姿をしていた。さいわいなことにモーロックではなかったが、それにしても奇っ怪な姿だった。顔つきは東洋人の女に似ていたが、その頭の大きさはどうだ。肩幅ほどの巨大な頭であった。しかもその頭頂部と側頭部には不気味な突起がつきでているのだ。衣類は身につけていたが、足には何もはいていなかった。
猫とその生きものは機械のわきを脇目もふらずに駆け抜けていった。
あれは何だったのか。ぼくはあっけにとられてその後ろ姿を見送っていた。
「ねえ、なにしてるの」ととつぜん声をかけられてぼくは飛び上がった。気がつくと、機械のかたわらに少年がひとり立っていた。めがねをかけた少年だった。子供のくせに蝶ネクタイを締めていた。無邪気そうな言葉づかいだったが、いくらか作ったような声色ではあった。その眼光と言い、どことなく、幼い外観よりもほんとうは年をとっているのではないかと思わせられた。
そして、なにより、不気味な雰囲気をただよわせていた。周囲で日常的に人が殺されているような、行く先々で殺人にであっているような、殺伐とした環境で暮らしている雰囲気だった。この子の前でうかつな行動をとると、たちまち凶悪な犯罪者だと決めつけられそうな気がした。しかも一声決めつけられただけで、どんなに隠しておきたいことも、最初から順序だててわかりやすく解説調にしゃべってしまいそうな気がした。なんだか、服も着ず頭もそり上げて全身を真っ黒に塗った人物に、物陰から憎悪を込めた視線でにらまれているような、いやな気分になった。
視線、そう、ぼくはそのときほんとうに視線を感じた。とつぜんに。あたかも、それまで存在感を殺していた人物が、ぼくが彼に気づくのをそのときになって許可したとでもいうように。
ぼくは機械の反対がわに目を転じた。そこにいたのは黒い人ではなかった。目つきの鋭い、身長6フィートあまりの、東洋人離れした体格の男であった。顔つきは日本人なのか、日本人とロシア人の混血か見分けがつかなかった。太い眉をしていた。ひげは生やしていなかった。太い葉巻をすっていた。
「俺に用か」と彼は聞いた。
ぼくはやっと、話の通じる人物に出会えたような気がした。「ここは何なんだ。いったいどうして君たちはこんなところにいるんだ」とぼくは聞いた。しかし男はその質問には答えなかった。「案内は俺の仕事じゃない」とつぶやき、葉巻を指先ではじいて捨てると、いずこかへ歩み去ってしまった。
以上である。タイム・トラヴェラーがみたものがいったい何だったのか、わたしにはいまだにわからない。しかし、これもまた根拠のない印象に過ぎないが、「ストランド」誌に推理小説を好評連載中のドイル氏が、この少年になにか関わりがあるような気がしてならない。
H.G.W.