<アスペルガー児の療育について考える シリーズ>
前回までの記事はこちら
第1回 第2回 第3回 第4回 第5回
第6回 第7回 第8回 第9回
さて反響の少なさにめげずにシリーズを続けてきたが(しつこい>自分)、やっと今日で終わりである。
<まとめ>
これまでしつこく9回も療育について書いてきたわけだが、そろそろネタも尽きてきたので、ここらで一旦まとめてみることにする。
はじめに立ち戻ると、この記事を書くきっかけになったのはriemitさんの「幼児期の療育は必要か」という問題提起であった。
数多くの書籍には確かに「早期の療育開始が大事である」と書いてある。
「ミチャポンのアスペルガー疑惑その2」のコメントでいただいた、riemitさんの指摘、
『「幼児期に診断して療育を開始しないと大変なことになる」的な表現を良く見かける』
は確かにその通りであろう。
そして書籍中には療育機関での療育の姿のみがクローズアップされているのも確かである。
だが、現実問題として、療育機関で適切な療育を受けられる環境にある場合は少ない。
生活する中、書籍等を頼りに家庭を中心として手探りで療育をする以外に道はない。
そんな中で、書籍中で療育機関によらねばできないような療育の例ばかりを出されても、それは療育する側の傲慢ではないだろうか思えてくる。
しかし本を書く側(即ち療育機関で療育する側)にとっては療育機関に来る子供の姿を主に見ているのだからそれはそれで仕方のない部分でもあるのだ。
それを批判していてもはじまらない。
書籍も含め、発達障害に関する環境は過渡期である。あちらこちらに齟齬はいくらもある。
そういった枝葉の問題にとらわれて大事な問題を見失ってはならないと私は思う。
それは、
「療育」というものが本当に必要であるか?
どういった「療育」が本当に必要とされるのか?
という問題である。
それも、アスペルガー者側の論理で必要であるかが重要だ。
アスペルガー児が大人になってアスペルガー者として生き抜いていくのに必要であるかどうかの実がところ問題なのだ。
よくありがちな親の側の「普通であって欲しい」という願いのために必要であるかどうかはこの際どうでもいいことだ。
(悪いが断言させてもらう、それだけ生きるのに必死こかなきゃならないのだ)
一貫してそうういった観点からこのシリーズを書いてきたが、私の結論を言うのであれば、前までの記事でさんざ書いたように「必要」である。
生き抜いていくための技術は必要だ!
しかしここでさらに難問にぶつかる。
現状、アスペルガー児の療育プログラムの殆どが定型発達の支援者によって作られている。
これではよかれと思ってした「療育」がアスペルガー児にとって「過剰な負担」や「余計なお世話」にしかならないことも十分あり得るのだ。
なにしろ定型発達者とアスペルガー者ではかなり感じ方も考え方も違う。
そこで今後の療育のあり方を考える上で是非取り入れて欲しいのが、成人アスペルガー者の感じ方や考え方を聴取しての療育方法へのフィードバックである。
定型発達の支援者とアスペルガー当事者が手を携えて療育というものを作っていけたら、今後、育ち続ける、そして生まれ続けるであろうアスペルガー児にとって大きな福音とはなりはしないだろうか。
と、遠大なのぞみを描いたところで、このシリーズ、終わりにさせていただきます。
なお、今回のシリーズ、徹底してアスペルガー者の立場から書きたかったので、定型発達の親御さんへのへの配慮は殆どゼロになっております。この点、批判・非難等々あるかと思いますが、そういったものも是非どんどんコメント下さい。
またそのご意見から何か見つかるかもしれません!
<おまけ>
分割して出してましたが、実は10記事書くのに要した時間は約10時間でした。これをアスペルガーの過集中っつうのね。
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ご愛読ありがとうございました
で…せめて、その〜
…ボチッとしていっていただけると…
うれしいです、はい。