「イェルサレムのアイヒマン」から気になったことをいろいろメモ。自分の仕事はしんどいけど尊い仕事だという思いこみに冷や水を浴びせられるような記載がいろいろあったので。
人殺しとなったこれらの人々の頭にこびりついていたのは、或る歴史的な、壮大な、他に類例のない、それ故容易には堪えられるはずのない仕事(「二千年に一度しか生じない大事業」)に参与しているという観念だけだった。このことは重要だった。殺害者たちはサディストでも生まれつきの人殺しでもなかったからだ。反対に、自分のしていることに肉体的な快感をおぼえているような人間は取除くように周到な方法が講ぜられていたほどなのだ。(同書p84)
彼らは後世に語られているような変態ではなかった。自分は彼らとは違うから彼らのような過誤は犯さないというのは浅はかな思いこみである。彼らが自分よりも下衆な連中だったとは限らない。私もまた彼らの立場であれば彼らと同じことをした可能性がある。さらに、こちらのほうが恐ろしい可能性だが、私が彼らと同じほどに「容易には堪えられるはずのない」困難な事業に献身するつもりで従事した仕事が、現代あるいは後世の他者から見れば、彼らの所行と同じほどに下劣な仕事と評価されるかもしれない。そして私もまた彼らと同様のサディストとして歴史の記憶に残るかもしれない。
してみると問題は、良心ではなく、正常な人間が肉体的苦痛を前にして感じる動物的な憐れみのほうを圧殺することだったのだ。ヒムラー---彼自身このような本能的な反応にどちらかというと強く悩まされていたほうらしいが---の用いたトリックはまことに簡単で、おそらくまことに効果的だった。それは謂わばこの本能を一転させて自分自身に向わせることだった。その結果、<自分は人々に対して何という恐ろしいことをしたことか!>と言うかわりに、殺害者たちはこう言うことができたわけである。自分は職務の遂行の過程で何という凄まじいことを見せられることか、この任務はなんと重く自分にのしかかって来ることか!と。(同書p84)
「自分は職務の遂行の過程で何という凄まじいことを見せられることか」か。時にこれまでの記事でそのようなことを私自身書いたような記憶がある。この任務はなんと重く自分にのしかかって来ることか!と、実際今も思わない日のほうが少ない(むろん、そう思う自分が実は好きだったりもするのだが)。でも、そう思えるからってその仕事が本当に崇高な仕事だとは限らないと、その最悪の歴史的実例ということだな。これはかなりの冷や水である。液化窒素かもしれんねというくらい冷たい。
それにしても、ヒムラーと言えば、私の読んだ娯楽小説では、冷酷で無表情で血も涙もなくて、あんまり冷酷だから悪の組織ですら人望が集まらずついにトップになれなかった男(たしかショッカーにもそんな奴がいなかったかな)というイメージだったのだが。その彼も「このような本能的な反応に強く悩まされていた」のか。意外。
そして文明国の法律が、人間の自然の欲望や傾向が時として殺人にむかうことがあるにもかかわらず良心の声はすべての人間に「汝殺すべからず」と語りかけるものと前提しているのとまったく同じく、ヒットラーの国の法律は良心の声がすべての人間に「汝殺すべし」と語りかけることを要求した。殺戮の組織者たちは殺人が大多数の人間の正常な欲望や傾向に反するということを充分知っているにもかかわらず、である。第三帝国における<悪>は、それによって人間が悪を識別する特性---誘惑という特性を失っていた。ドイツ人やナツィの多くの者は、おそらくその圧倒的大多数は、殺したくない、盗みたくない、自分らの隣人を死におもむかせたくない(なぜならユダヤ人が死にむかって運ばれて行くのだということを、彼らは勿論知っていたからだ、たとい彼らの多くはその惨たらしい細部を知らなかったとしても)、そしてそこから自分の利益を得ることによってこれらすべての犯罪の共犯者になりたくないという誘惑を感じたに相違ない。しかし、ああ、彼らはいかにして誘惑に抵抗するかということを学んでいたのである。(同書p118)
自分の内なる声を「誘惑」と考えて、その誘惑に抗して仕事に邁進する・・・しかし実は人倫に適うのはその「誘惑」の声のほうであって、その時点では倫理に適うと思って従事した仕事のほうが実は唾棄すべき仕事であったと、それは本人にとってはまったく悲劇である。傍から見ると残酷な喜劇かもしれんがね。本人にとっては全く悲劇だ。
もちろん、殺される方にしてみれば、悲劇だなんてそんなこと知ったことではないのだが。