responsibilityとaccountability

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Nice!

https://www.chikawatanabe.com/blog/2003/03/accountability.html

responsibilityとaccountabilityってこう違うのよ、という上記の記事を半年遅れで読んだ。なるほど。勉強になった。

私ごときがこの二つの語の各々に新しい訳語を思いつけるわけもないが、この二つの概念の違いは理解できるような気がする。ようするに、受け持ち患者の病気に対して、医者が責任を持つと言うとき、この責任というのはresponsibilityのほうなんだろう。それに対して、世間から求められ裁判所で糾弾されるときに、求められる「責任」ってのがaccountabilityなんだろう。同じ責任という日本語を使われてもその二つがものすごく違うために戸惑っているのが、いまの医療倫理とかの大きなテーマになってるんじゃないかと。元記事にも『responsibleな人は一生懸命がんばれば成果が出なくても許されるかもしれないが、accountableな人はがんばったくらい・謝ったぐらいでは許されない。「ゴメンで済むなら警察はいらない」のである。』とあるが、まさにaccoutabilityが問われる状況が生まれてきて、警察が医療に介入してくるようになったんだよなと思って腑に落ちた。

元記事のコメントに
Responsibility -- 取る責任
Accountability -- 取らされる責任
と紹介されていて、なら私が医者だから、医者としてとらされる責任がaccountabilityなんだということで元記事の掌を(お釈迦様の掌を出られなかった孫悟空のように)まるで出てないじゃないかよというご指摘もあろうが・・・いやご指摘通りなんですがね。ここまでなら譲歩できるという緩い責任がresponsibilityで、そんなご無体なという詰め腹レベルの厳しい責任がaccoutabilityでと、そういう量的なレベルの違いなのだろうかというと、元記事ではそう言っているようにも読めるが、医療に関してはそうでもないように思う。それは私が医者だから医療を特別視してるだけなんでしょうか。

患者さんの病気にaccountableなのは本当に俺らなのかよと思うことは大いにある。誰かがaccountableだと言うのなら、それは天の上におられて本名を呼ばれるのが嫌いなあの方とかじゃないのかとか思ったりして。人の身で人の病に対してresponsibleなのは隣人愛だけど、accountableと称したところでキミは自分が何様のつもりだよと言われるのが落ちだとも思う。医療を巡る裁判も、responsibilityに欠けるというご指摘ならまだ話し合いの余地もあるが、accountabilityに欠けると言われてもそれはないぜという構造になってるような気もする。医者がaccountableだと自ら認めるのは誤薬などいわゆる「初歩的ミス」で、多くの場合は医者は自分のresponsibilityに関しては議論のテーブルにつけるけど、accoutabilityを言われても議論自体に納得しがたいわけで。

傍から見てると、たぶんだけど、accountabilityを巡る議論は冷静な議論に見えるんだろうと思う。でも自分のresponsibilityを議論しようとする奴は議論しようとするだけでヒトデナシみたいに見えるんだろうと思う。だからaccountabilityを巡る議論をしようとしているときに、あたかもresponsibilityを巡って四の五の言っているような報道をされると腹が立つのだろう。そうしたほうが扇情的に面白くなるから意図的に混同してるんだろうと、どうしても思えてしまって。