またやっちまった…このところタヌキが帰ってきてから食事するまでの間に玄関の土間でクラシックをかけることが多い。うちの玄関の土間、京間の6畳程度だが天井が高くちょっとホールみたいな音響構造、なのでそこにスピーカーを置くとかなりいい音になる。そこで昨年暮れからオーディオセットをそこにタヌキが持ち込み、時々音楽鑑賞をしているのだが、台所と隔てる壁がないので(格子戸しかないし上部はまる空き)音がだだ漏れなのが問題なのだ。最近私が台所に立つ時間とかぶることが多くなり、音あたり事故が頻発。交響曲の類はだいたいはじめは音量も控えめで最終楽章に向けて音が大きくなり、打楽器の使用量も増えていく。よく聞くやばい曲ならあらかじめ予防線を張って耳栓なりデジタル耳栓を装着しておくが、耳慣れない曲だとつい最初の方ふんふんとこっちも気持ちよく聞いていて気がついたら調理の能率が落ちて、調理時間がいつもの3倍くかかってしまうという事故が起こるのだ。食あたりならぬ音あたりである。数日前、ついふんふんと台所でタヌキのかけるクラシックを聴いているうちに調理の手がすすまなくなった。あわててデジタル耳せんを装着したが、音量がでかすぎため太刀打ちできなかった。通常の耳せんもイヤーマフも最近使っておらず、台所においていなかったのもまずかった。冷蔵庫に何かを取りに行くものの何を取りに行ったか忘れて流し台と冷蔵庫の間を何度も往復。米をとごうとして精米器に玄米をいれてスイッチを入れ忘れたまま皿をあらいはじめ、さて、研ごうと精米器をみると当然精米されていない。スイッチをいれて他のことをはじめるが、精米器の終了のアラームに気がつかずまた放置、しばらくして気がついてやっと米をとぐという有様。はては自分で何をやろうとしていたか忘れるというのを頻発。「ちょっと音量さげてくり~」と言えばいいのにそれを思いつかないというおまけ付き。だんだん意識が途切れるような感覚になってくる(実際は動きが止まっているという状態)。味覚にも自信が持てなくなってくる。やっとのことで夕食を作り終えたときは精根尽き果てた状態。食卓で家族の言っている言葉が聞き取れない現象に見舞われる。音としては入っているのだが意味のあることばとして捉えられない。あげくどうも視界が変である、視覚刺激が実感を伴わなず、どうみても明るいのに部屋が暗い時と同様な感覚のみえずらさが生じる。かなりダメージがきつかったようだ。その晩は普段気にならないファンヒーターの音まで轟音に聞こえるのでずっとデジタル耳せんをしていた。聞こえ方と味覚は一日でだいたいもどったが視覚の実感の回復には3日ほどかかった。タヌキには「危ない(はじめと最後で音量の差が大きい等)曲のときはあらかじめ予告してほしい」と頼み、台所に通常の耳せんとイヤーマフを置いておくことに。たぶんこれで事故確率は減るだろう。今回の音あたり事故で驚いたのはダメージがものの知覚認知にかなり大きな影響を与えるということだ。前々から聴覚刺激の過多、寝不足、疲れ、ストレスなどのダメージがあると聞き取り機能がかなり落っこちることはわかっていたが、知覚認知そのものにかなりの影響が出る、しかもダメージの原因がなくなってからしばらく続くというということが体験できてしまった。変な話だが、ダメージの発生が急激だったのでわかりやすかったのだろう。私自身のことだけいえば、予防措置を講じればおしまいなのだが、ここからちょっと考えを進めると、感覚過敏を持ちながら感覚過敏に気がついていない人の場合、知らぬ間にダメージを溜め込む可能性はあるだろうし、影響が継続するとなればそのダメージが知覚認知方面(周辺環境の実感的なものも含め)に大きな影響を与えることも考えられるのではないか?とまあそんな事を考えた。心身のダメージと知覚認知の関係…だれか研究しておくれ~!と言いたいところであるが、実験で実証しようとするとそれなりに危険が伴う実験になっちゃうので難しいかなあ?<おしまい>