@shibawaki @mihyonsong 虐待の理由を、子供の前世などという根拠のないものを持ち出して子供に帰する人物と話すことなどありません。不愉快です。— ながし (@Pnagashi) November 1, 2013
↑このツイートを目にして、会話のやりとりを読んで、わたしがTwitterとFacebookに書いたこと↓をリライトして残しておきます。
虐待を受ける子どもに「責任」なんかない。
もしその子が「素因として持つ何か」によって、嗜虐性を誘発する行為をしてしまったとしても、大人が自らの感情に任せて虐めていい理由にはならない。その子に「責任」なんかない。それは、こらえられない大人の「責任」だ。
「わが子が自分を、選んで生まれてきてくれた」と思うことで、救われるひとはいる。そう思うことによって、子どもの育てにくさや愛せなさや、つらさをしのぐ納得が得られるのなら、「子どものために」良いと思う。(ただ、押しつけられるとどうしようもなく苦しくなってしまう人もいることは覚えておいて欲しい…)
でも、地獄だとか、輪廻だとか、因果応報だとか、宿命だとか、人を怖がらせ、恐怖でコントロールするがための危険な圧力でもって、「この子が持って生まれた宿命」だなんて、僕は、絶対に、言わせない。
そんなことを言うやつこそ「畜生」なんじゃないでしょうか?
愛されづらい、愛しづらい子どもも大人も、そういう「カタチ」を持って生まれて、育てられたんだ。
それを、個人に帰責すること、しかもその理由を、証明も否定もしようがない「前世」だなんてもののせいにされたら。脱出不可能な「生まれながらの檻」に閉じ込められてしまう。
このことに、僕がこだわるのは、「前世」だとか「運命」だとかいう因習的世界観が、障害を持って生まれた子どもとその親への「呪い」「呪縛」として機能することに危機感を覚えるからです。