Twitterでフォローしているよっひーさん@yohimaxは、Twitterで考えながら連続投稿をして、それをまとめてブログ記事にするスタイルを日々続けている。
わたしはよっひーさんの記事は、必ず読んでいる。
いつも、胸をつくメッセージが届くのだけど、この記事は最近じぶんが考えていることにシンクロしていた。紹介したい。
・「弱さ」で身を寄せ合って|誰もいないどこかへ
https://ameblo.jp/yohimaxa/entry-11639827875.html
しかし、「ただ身を寄せ合う」ということの効能はバカにはできないのだ。
経済的なスラムで、たとえ満腹にならなくても、1つのパンを3人で分けあって、3人が共に餓えない、ということに大きな意味があるのと同じで、たとえ満足や安心が得られなくても、同じ境遇の人がそこにいて、今日もいなくなっていない、ということには大きな意味がある。
先月、インドのスラムを舞台にした『シャンタラム』という小説を読んだので、イメージがわいた。
日本でも、今、インターネットなどを通じて、小さな「スラム」的な集落ができはじめているのではないかとよっひーさんは言う。
ただ1つ言えるのは、「弱さでつながる」というのは、よく企業や団体や、あるいは同じ志や野心を持つ者同士が、連帯したり協働したり、または同盟を結んだりするようなイメージではなく、言うなれば「スラムで身を寄せ合って生きている」という感覚のほうが近い。
お互いに力はない。互いに言葉を交わすことも少ないし、別段仲が良い、というわけでもない。誰か傷ついた人がいても助けられるような甲斐性を持っているわけでもないし、事実、そのつながりの中では、今日は誰々が自殺した、今日は誰々がいなくなった、ということが日常茶飯事的に起こっていて、それでも「ああ、あいつもいなくなってしまったんだな」という感慨のような感情を湧き起こす以上に、できることがあるとも思えない。
今回の記事もこれまでの記事との連なりの中で書かれているので、「支援」だの「理解」だのと言う人と実際に「それ」を受ける側の人たちとの間の断絶についても間接的に指摘をしている。「スラム」の住民は、同じ境遇だからこそ、よりそいあえるのではないか? そこに、その境遇よりも「高い」立場にいる人が入ってきて、「理解」をして「支援」をすることで、本当に救いになるのだろうか?と。
『シャンタラム』でも、そのテーマは通底していた。この小説のことは、またいつか書きたい。