このシリーズ記事、後半は、「しない」ということば(拒否の意思表示)を活用したコミュニケーションがなぜ「難しい」のかについて、さまざまな角度から考察しています。前回、「しない」ということばの「難しさ」の要素の1つとして、「しない」の対象になっている行為を「しない」と考えることができるようになるためには、その行為を「する」という経験を繰り返していなければならない、という一種のパラドックスについて書きました。今回からは、そこからさらに一歩進んで、よりテクニカルかつ重要な点について考えていきたいと思います。いままで、いろいろな行為を「する」(やりたい)というコミュニケーションだけを教えてきて、そこから新しく、「しない」(やりたくない)というコミュニケーションを教えようとするとき、重要なポイントは、「しない」を教えた結果として、「する」を表現できなくなってしまっては無意味。ということです。つまり、「しない」を教えるというのは、「する」を卒業して、「しない」だけになればいいというわけではなくて、今までどおり「する」(やりたい)というコミュニケーションができるうえに、さらに「しない」(やりたくない)というコミュニケーションが「追加で」できるようにならなければまったく意味がない、ということです。これを読んで、実際に自閉症のお子さんを育てている(支援されている)方は思い当たるところがあるでしょう。自閉症のお子さんは、何か新しいことを教えると、それまでできていたことができなくなってしまうことが多々あります。我が家でも、娘の療育で、これでどれだけ苦労してきたかわかりません(^^;)。ですから、「しない」のコミュニケーションを教えるときに、もっとも気を使わなければならないことの1つは、「する」(やりたい)というコミュニケーションが消えないようにする、ということです。もっと端的にいえば、ある行為について「しない」(やりたくない)を教えるとき、「しない」のほうばかりを教え続けるのではなくて、同じ行為について「する」(やりたい)というコミュニケーションも適宜織り交ぜて教えてあげるようにしなければならない、ということです。ということはつまり、前回と繰り返しになりますが、「しない」を教える対象となる行為は、「やりたい」ときと「やりたくない」ときがそれぞれ一定以上の頻度で現れる、「やりたいときもあればやりたくないときもある」という行為でなければならないことになります。この条件を満たす行為は、けっこう限られていますよね。その最も端的な行為は「排泄」だと思いますが、これはこれで、「排泄の自覚とコントロール」という、トイレトレーニングの別の要素がからんでくるので、そう簡単に「しない」を教える行為として採用することはできなかったりします。「水を飲む」なんていうのは、ある程度条件を満たすかもしれません。(でも、水をそもそも飲まないお子さんだと無理ですよね。)ともあれ、しっかりふだんの生活を観察して、お子さんごとにカスタマイズされた「『しない』を教えるのにふさわしい行為」を選んで、「しない」(やりたくない)と「する」(やりたい)をバランスよく同時に教えていくことが必要になってくるわけです。これは、ABAでいうところの「分化強化学習」になるわけですが、ここでまた別の「難しい問題」が表れてきます。(いや、ほんとに「しない」は難しいんですよ。(^^;))(次回に続きます。)