「障害があるように見えない」これは発達障害者がときどき定型発達者に言われるセリフなのだが、結構これには抵抗がある発達障害者が多いようだ。(ちなみに私個人はなぜか抵抗がない)なんでかな?と思って考えてみるに、成人発達障害者の多くが「つらさ」というものを抱えてしまっていることに遠因があるのではないかということに行き当たった。日常のあちこちで「つらい」のに「障害があるようには見えない」と言われてしまうと、自分の「つらい」という感覚、ひいては「障害の存在」、「障害をもつ自分自身」を否定されたように感じてしまうのではないだろうか?ところが…、いろいろ観察していくと、定型発達者がこのような言葉を発するのに、実は深い意味はないことが殆どだ。せいぜいのところ、「パッと見たところあなたが自分と違うようには”感じられない”」くらいの意味でしかない。定型発達者では好意を示すのに同質性の確認をすることが好きな人が多いことを考えれば、結構好意的な表現なのである。(そういえば同質性の確認についての記事をだいぶ前に書いたのでリンクを張っておく↓https://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-118.html)もちろん「その言葉のウラには健常者至上主義が隠されている、許せん!」などとケチをつけることも可能ではあるが、それってちょっと無粋ではないだろうか?自然に感じてしまう感じ方にケチをつけてもしょうがないのではないかと私は思うのだ。比較的好意的な表現に対しては、相手が気にくわないのでなければ「好意的」な返答をすればいい。かくして私は「障害があるように見えない」という言葉に対して、「そうでしょ~、いや~何しろ見えない障害なもんでね~」というような返し方をする。すると結構そこから「どんな障害なのか」についての話が広がったりするから不思議なものだ。にほんブログ村 発達障害ランキング↑ブログランキング参加してます。↑応援の1日1クリックをとりあえず、ま、…ぼちっと↑おひとつ。