クラというのは太平洋の島嶼において、習慣的に交換される首飾りなんだそうだ。貝殻でできている。それ自体は何の役にも立たない(貨幣としての役割すらない)。内田樹先生がじょうずに要約してくださっている。というか私がクラのことを知ったのは内田先生のブログでなんだから、元ネタなんだよね。クラ儀礼はソウラバという赤い貝の首飾りと、ムワリという白い貝の腕輪の交換である。この装飾品にはまったく実用性がなく、他のいかなる品物とも交換することはできないので貨幣としての機能もない。ただ、それぞれの装飾品には、それをかつて所有した人々についての伝承が「物語」として付随している。これを長期間自分の手元にとどめておくことは許されず、次の交換相手へと手渡さねばならない。2種類の装飾品はクラの円環を、互いに反対方向に、とどまることなく回り続ける。ソウラバは時計回りに、ムワリは反時計回りに、2年から10年で島々を一周する。クラ交易に参加できるのは男性だけで、参加資格を得るのは大きな名誉であり、「有名な」装飾品を手にしたものは、いっそう高い威信を手にする。クラに参加したものは装飾品のやりとりをする相手として「クラ仲間」を有しており、「堅い契りの義兄弟」関係として生涯にわたって持続する。クラ交易そのものは経済的交易ではない。だが、クラの機会に、島々の特産品の交換が行われ、情報やゴシップがやりとりされ、同盟関係の確認も行われ、クラが必要とする遠洋航海のために造船技術、操船技術、海洋や気象にかんする知識、さらには儀礼の作法、政治的交渉のためのストラテジーなどを参加者たちは習得することを義務づけられる。つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。ピュシスの贈り物 (内田樹の研究室)研修医ってのも各地のNICUのあいだで交換される首飾りみたいな存在なのかねと思った。何の役にも立たない、と言ってしまうのは研修医諸君に失礼だが、しかし役に立つからといって研修医を受け入れるのは詐欺だ。役に立てようとして受け入れるんなら研修医じゃなくて一人前のスタッフとして受け入れるべきなんだから。公式には、彼らは役に立たない者として受け入れられるべきなのだ。研修医は各地のNICUをぐるぐるまわる間に、研修にまつわるたくさんの物語を身にまとっていく。どこでどういう症例に出会いこういう問題意識を持ったので次はこの施設へ行って誰それ先生の元でこういう手技を学びこういう研究を行い、云々。研修医を交換する施設の側も、男性に限るかどうかは別としても、研修医の交換に参加できるのはおおきな名誉であるし、研修医を出す施設受け入れる施設の間ではあたかも「堅い契りの義兄弟」といった関係が形成される。そういう研修医の行き来がなされることで、「共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟」というかたちでの新生児業界全体の発展がなされる。まあ、研修医の交換ははたしかにクラ儀礼だねと思う。であれば、人手が足りないから研修医を受け入れよう、というのは邪道ということになる。人手が足りないからという理由で研修医を入れていると、研修医を手放さなくなるからだ。つぎにいつ新しい人が来るかどうか分からないという不安も手伝って(研修医の労働力に依存するような貧困な施設には研修医なんて滅多に来やしない)、彼らが新しいステージに進むのを拒むようになる。具体的には、彼らに対して君はまだ未熟だからこの施設で学ぶことがたくさんあるという物語を語り続けることによって。さんざんこき使いながら、その仕事ぶり成長ぶりを過小評価し続けることによって。しかし本来は、過小評価するも何も、研修医はもともとそれ自体に内在する価値はない存在なのだ。ゼロベースでやってきて、島あるいは研修施設での、持ち主あるいは指導者側による伝承を身にまとって、次の施設へ移っていく。ソウラバやムワリと同じく、価値が減損することはあり得ない。ソウラバやムワリと研修医とに違いがあるとすれば、ソウラバやムワリは入手した時点で「有名」であることが可能だが、研修医はたいていの場合において無名であるということだ。施設への評価は事後的になされる。あんな有名な新生児科医がかつてはあの施設で研修したんだというように、伝承は時間を遡って研修施設の「威信」を高めることになる。話を2段落前に戻すと、過小評価され続けた研修医は、なんかこの施設でいつまで働いていても満足に成長している気がしない、と、研修施設を見限って、袂を分かつように外へ出て行く。ようするに、気前よく研修医を外へ出せない施設は、気前の悪さのゆえに研修施設としての格をみずから落としていく。クラ儀礼と同じく、研修医も気前よくぐるぐると回さなければならない。宵越しに手元にとどめておきたがることは野暮なのだ。