自閉症の天才ゴルファー 

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Nice!

石川遼プロの活躍がTVを賑わせていて・・・あんなに若いのにすごいな〜と関心ばかりしています。久しぶりにネットサーフィンなどしていたら、プロゴルファーの方のHPにたどりついて・・・モー・ノーマン氏(故人)のことを知りました。モー・ノーマン氏は まこちゃんとは違って 親しい人とだったら会話も成り立つし、普通に(?)生活もできていたようです。彼をプロ・ゴルファーが必死に探し歩いたり、たくさんの人に尊敬され愛された人生は素敵だと思いました。でも・・・やっぱり・・・寂しい亡くなり方でしたが・・・自らが愛したゴルフを一生続けられた人生は 素敵だったのではないでしょうか・・・。まこちゃんは どんな風にこの世の中で生きていくのだろうと思うたび・・涙がぽろぽろとこぼれてしまいます・・・。モー・ノーマン氏の詳しいことはわかりませんが、インターネットが無かったら 彼のことを知ることも無かったかもしれません。「才能が子供達を生かすのだ。その才能をみつけて育てるのは 親しかできないんですよ」山口薫先生から頂いた言葉がいつも脳裏に浮かびます。歩いても歩いてもゴールの無い道と思える道は いつか私が死ぬことによって終わりを迎えるのですが、私は息子に何を残せるだろうか・・・そう思いふける秋の夜です。モー・ノーマン伝説https://www.naturalgolf.co.jp/moenorman.htm世界一のボールストライカー モー・ノーマン 1969年にカナダのトロント郊外で行われたエキジビションで、モー・ノーマンはサム・スニードと共にラウンドした。240ヤード先に川が横切っているパー4のホールで、サム・スニードは川の前で刻んだのに対して、モー・ノーマンはドライバーを握って打とうとしていた。サム・スニードがここは刻みのホールだとモー・ノーマンに言うと、彼は川の真ん中にある橋を狙っていると言ってティーショットを打った。ドライバーから放たれたボールは、狙い通りに橋を渡って向こう岸に転がって行った。 あるエキジビションでは、7時間に渡り1540球のドライバーを打ち続け、一番飛ばなかったボールは225ヤードで、全てのボールが30ヤードの幅におさまっていた。 またあるエキジビションでは、ティーアップされたボールだけをクリーンヒットし、1本のティーを動かすことなくそのまま使ってドライバーショットを131回続けた。1971年以来OB無し。 リー・トレビノは、ベン・ホーガンやバイロン・ネルソンを含めても、世界一のボールストライカーは、モー・ノーマンであると断言する。 ケン・ベンチュリーは、彼をパイプラインモーと呼んだ。 1949年オンタリオで行われたアマチュアの1日トーナメントに出場した。彼に出場権利はなかったが、当日欠員のためプレーをすることができた。当日は、スニーカーでぼろぼろのゴルフバックに7本のゴルフクラブで参戦し、67のスコアーで優勝した。しかし晴れがましい優勝パーティーに出席することを嫌い、そのままその場を去った。 1966年カナダのトーナメントで12戦中5勝、2位が5回、最低でも5位であった。 1979年に50才になり、7年連続カナダプロシニアに優勝する。8年目は5位に甘んじたが、9年目に8打差をつけて再度優勝する。 40を越えるコースレコードの中で59が3回、61が4回。しかも62才の時に59の世界最年少のエッジシュウトを達成する。 今年カナダゴルフ協会のゴルフ殿堂入りを、ジャック・ニクラウスと共にしている。 少年時代は自閉症で見知らぬ人と接するのが苦手で、視線を合わせることもできない。ゴルフ以外は、興味なし。現在も一月400ドルのモーテルに住み、電話もない。映画の「レインマン」の主人公そのものである。しかし記憶力がすごく良く、ラウンドした全てのゴルフコース、ゴルフショットを覚えている。 1995年のPGAショウにて、タイトリスト&フィットジョイのユーライン会長より、一生涯にわたり毎月5000ドルをモー・ノーマンに進呈する旨の契約を行われる。ボビー・ジョーンズやベン・ホーガン同様に、モー・ノーマンの今までの偉業に対する感謝と尊敬のしるしであるとのこと。またモー・ノーマンのスイングをビデオに納め、今後のゴルフ界に受け継がれるべく努力をする。 1955、56年カナディアンアマチュアを連覇して、マスターズ出場の招待を受けた。 初日は75とアマチュアとしてはまずまず。競技終了後に、練習場にて憧れのサム・スニードからアドバイスを受けたモーは、まるで子供のように嬉しくなり、その後4時間以上もとりつかれたようにボールを打ち続け、気が付くといつしか手は血にまみれ、クラブを握ることができないほどになってしまった。それが原因で、翌日は9ホールをプレーしただけで棄権しなければならなかった。モー・ノーマン裏話https://www.naturalgolf.co.jp/moestory.htmセキュリティーブランケット 1993年1月に物理学者のジャック・カーケンダルを通じて、初めてモー・ノーマンと知り合う事が出来た。 少年期から自閉症ということで、初対面の人間と会うことが得意でなく、 オーランドにあるインターナショナルゴルフクラブのクラブハウスでのモーの態度は、まるで小学生の子供の様であった。 落ち着きが無く、手にはドライバーを握りしめ一時も離さない、子供でいうセキュリティーブランケットの様であった。 話をするときも目線が定まらず、こちらの質問にも答えが定かでは無い。 しかし、一端ドライビングレンジに出てボールを打ち始めると、人が変わってしまった。ちょうど役者が舞台に上がったようなもの。 まさしく水を得た魚であった。 その姿は堂々とし、まさに世界一のボールストライカーと呼ばれるにふさわしいもの。 後で聞いた話だが、モーは、初対面の人間にはほとんど会話をしないという。 どうりであまり会話が成立しなかったわけだ。モー・ノーマン物語https://www.h2.dion.ne.jp/~tabaken/page15.html幼少年時代モー(マレイ)・ノーマンは1929年カナダのオンタリオ州キッチャナーで生まれた。 5歳の時、友達と近所の丘でソリ遊びをしていたモーは、勢いあまって車道に滑り降りてしまった。丁度そこへ車が走って来て、後輪でモーの頭を轢いてしまった。友達は泣きながら、モーの両親に事故を告げに走った。モーを病院にやることもできない程貧しかった両親は、ただひたすら神にモーの頭脳に障害がないことを祈るだけだった。両親の祈りが通じたのか、モーは奇跡的に助かった。しかし、顔の骨が少し歪み、言語障害が残った。学校に通うようになってからも、モーの言語障害は直らなかった。ハイピッチの声で、同じことを二度繰り返して言う癖である。何事も動作が鈍かったモーは、クラス中の笑いものだった。しかし、一つだけ彼が抜きん出ていた科目があった。それは算数であった。二桁以上の数字を暗算で素早く行い、クラス中を驚かせた。また、彼はどんな数字でも記憶してしまった。友達の居ないモーにとって、唯一の連れは古い錆びた5番アイアンだった。(一説によると、このアイアンはある人から、毎週10セントの分割払いで買ったともいう。)このアイアンで家の裏(以前ソリ遊びをしていた場所)で、暇があればボールを打っていた。夕暮れになってもボール打ちに熱中し、食事も忘れる程だった。ボールを打っている時が一番幸せな時だった。ある時、モーの打つ動作を見て、知り合いの大工のおじさんが、「坊や、そんな握りじゃ駄目だよ。ほら、わしがハンマーを握るように、右手でしっかりと握らなければ。」とアドバイスした。その時以来今日まで、モーのグリップはパームグリップである。12歳の頃、モーはあるカントリークラブのキャディーのアルバイトをしていた。或る日、ある鼻持ちならない客がチップを少ししかくれなかったのに腹を立てたモーは、客のゴルフバッグを投げ捨ててしまった。勿論、即首になった。その後、モーはキャディーのアルバイトを辞めて、近所のパブリック・コースで自分のプレイに専念することにした。16歳でモーは学校を辞めた。そして、ゴルフに専念した。費用はアルバイトで稼いだ。